阿刀田高 響  灘 そして十二の短篇 目 次  響  灘  家族ゲーム   動物あわせ   消えた言葉   ここだけの話   猫 を 飼 う   遊 園 地   御 香 典   市 民 感 覚   男 同 士   秋 の 色   めぐりあい   野 沢 菜   花 冷 え [#改ページ]  響  灘  ——休暇をとろう——  そう考えている矢先だった。  日本のサラリーマンが働き過ぎかどうかはわからない。欧米のサラリーマンだって熾烈《しれつ》な競争の中で生きている。厳しいということなら、むこうのほうがむしろ厳しい。  ただ、日本人の場合は、わけもなく労働時間が長い。おつきあいで残業をしたりして……。タイム・レコーダをオンに押せば自動的に働いていると見なされる。能率や集中力よりも、けっして休まないことが忠誠心の表われとして評価される。  もうそんな時代ではあるまい。  人はなんのために働くのか。むつかしいテーゼを持ち出さなくても、たまには純粋に私的な休暇をとってもよいではないか。休暇の理由をだれに説明する必要もない。ただ、ひたすら自分のための休暇……。 「二日も休みをとるのか。なんだね」 「ええ。命の洗濯です」 「おっ。あやしいぞ」 「はあ、どうも」  このくらいの感覚が望ましい。  若い人たちはみんなそれを望んでいる。現場のリーダーとしては、そんな気分をよく理解して潤滑油になってやりたい。そのためには、まず自分が実行すること……。矢おもてに立つ覚悟がなくてはいけない。  ——さりげなく、スマートにやりたいね——  そう考えたまではよかったが、  ——しかし、休暇をとってなにをやるかなあ——  保村秀一は困惑してしまった。  会社とはまったく関係のないこと……。  ゴルフ。これは仕事とおおいに関係がある。ほとんどの場合、仕事がらみだ。じゃあ家族旅行かな。妻と二人の子どもたちを連れて……疲れるばかりだろう。それに、家族旅行はときどきやっている。職場に対しても一応は名目の立つ休暇になっている。  純粋に自分のためとなると、かえってむつかしい。  なんの目的もなく一人で電車に乗り、鄙《ひな》びた温泉宿に泊り……。  ——あんまり楽しそうじゃないな——  もう少しましなアイデアがないものだろうか。  ——響灘《ひびきなだ》かな——  頭のすみに、そのイメージが浮かんだ。 「ものすごくきれいな海よ」  ひと頃よく行っていたコーヒー店のママが山口の人で、サイフォンの中で沸騰するコーヒーの泡を見つめながら呟《つぶや》いていた。店には�イエスタデイ�のメロディが流れていて……。ママにもなにか淡い思い出があるらしい。 「断崖《だんがい》の下で暖流と寒流とがぶつかるの。波が立って、その音が響くのよ」  あのとき保村は、頭の中に日本の地図を描いてイメージを脹《ふく》らませた。  暖流というのは、対馬《つしま》海流のことだろう。遠く東シナ海を縫って流れて来た黒潮が玄界灘から日本海へと注ぎ込む。一方、寒流はリマン海流かな。日本海をよぎって細い対馬海峡へと押し寄せて来る。  それがぶつかり、どんなざわめきを立てるのだろうか。響灘という命名が、いかにもそんな海にふさわしい。  それを断崖の上からじっと見つめている……。その姿が自分であるような、そんなイメージが保村の中にできあがった。まだ行ったこともないのに。  ——行ってみるかな——  しかし、これとても道のりの長さのわりには、さほどのことではないかもしれない。  電話のベルが鳴り、受話器を取った。 「はい。営業第二係」 「保村さん、お願いします」 「保村ですが……」 「あ。私。塚本です」  声はとてもなれなれしい。 「塚本さん?」  保村は曖昧《あいまい》な調子で答えながら記憶の糸をたぐった。 「おわかりにならない? 万里子です。清川です」  受話器の中から含み笑いがこぼれて来る。 「ああ。わかります」  塚本という姓は年賀状で見たが、耳にはなじみがない。結婚前の姓を言ってくれなければピンと来ない。 「お久しぶりですね」  まったく。別れてから五、六年たっただろうか。 「うん。声は変っていない」 「そうかしら。でも、わからなかったわ、私だって」 「塚本なんて言うから……」 「仕方ないでしょ。塚本なんだから。今、よろしい?」 「いいですよ」  周囲に視線を配りながら答えた。 「あのね……お願いごとがあるの」 「ほう。怖《こわ》いね」 「怖いかしら。そんなこと言われると言いだしにくいわ」 「なんだろう。言ってみてください」 「いきなりは変ね。お変りはありません?」 「ええ。まるで。昔と同じようにサラリーマンをやってます」 「偉くなられたんでしょ」 「いや、べつに」  女性はサラリーマンの世界をどう見ているのだろうか。係長になったからといって、とくに職場の風景が変るものではない。椅子《いす》だってこの頃はみんな同じである。 「お昼にはお休み時間があるんでしょ」  壁の時計が十一時二十分を指している。 「もちろん」 「だったら、お会いできません?」 「いいですよ。今、この近く?」 「銀座に。でも、どこにでも行きます」 「じゃあ、東京会館」  会社の周辺には人目がある。とくにやましいことはなにもないけれど、万里子に会うのなら少し離れたところのほうがいい。 「お濠《ほり》ばたの?」 「そう。十二時十分。どう」 「わかりました」 「じゃあ、そのとき」  受話器を戻し、またまわりの席に目を走らせた。みんな知らん顔をして仕事を続けているけれど、会話の断片くらいは聞いている。  ——なんだろう——  保村はデスクの上の書類に眼を落とし、ページをめくりながら考えた。  見当がつかない。  いや、思い当たることが一つだけあるのだが、多分ちがうだろう。あまりにも唐突過ぎる。  しかし、相手が万里子ならありうることかもしれない。  白い裸形が浮かぶ……。  そんな想像を描いていることが仲間たちに知れたのではあるまいか。あわてて赤鉛筆をとって書類にアンダーラインを引いた。 「じゃあ、貯金をさせてくださらない」  そんな台詞《せりふ》が一番よく保村の耳に残っている。  万里子は変った言葉|遣《づか》いをする人だった。聞いたときには、なにを言っているのか、すぐにはわからない。説明を聞いて、  ——ああ、なるほど——  と合点する。  ポツンと不思議なことを言いだすのだが、けっしてものを考えずに喋《しやべ》っているわけではない。頭の中にはひと続きの物語ができあがっていて、その最後の部分だけを先に呟く。万里子式の言い方で……。  自意識が強く、おそらく自分勝手な人だろう。  けっしてわるい意味で言うのではないけれど、そのことは何度か感じた。ほかの人なら欠点になることが長所に映る。万里子については、どうしても点数が甘くなってしまう。多分わるいものを見ないうちに別れてしまったから……。  知りあったのは神田のスペイン語教室だった。  スペイン語圏相手の商売が急速に脹らんでいて、  ——少しは勉強しておいたほうがいいかな——  そう思って夜の講座に通った。  万里子の目的はなんだったのか。万里子はギターを弾く。 「アルゼンチン・タンゴを歌いたいの」  ギターにあわせて原語の歌を歌いたいと、そのあたりが、とりあえずの目的だったろう。  最初の日に万里子は遅れてきて保村の隣にすわり、なんとなくその席が定席となった。最初に話しかけたのは万里子のほうである。 「むつかしいわね」 「本気でやらないと駄目でしょう、やっぱり」 「発音はやさしいって聞いてたんだけど」 「そうでもないなあ」  あまりなれなれしいので、保村はどこかで知っている人かと思ったほどだった。  たとえば、同じビルに勤めるOL。取引き先の窓口嬢。近所の娘さん……。  あとになってそのことを言うと、万里子は小首を傾《かし》げて、 「あなたが誘ったんでしょう」  と言う。  顔見知りになってからは、保村のほうが誘ったけれど、はじめはちがった。その記憶にはまちがいはない。 「そうかなあ」 「わるいんだから」  と睨《にら》んでから、 「波長があいそうな気がしたのね」  と笑う。 「波長ね」  この言い方も万里子らしい。  たしかに波長はよくあっていた。スペイン語のほうは二人ともものにならなかったけれど、成果は皆無ではない。三カ月の講習が終る頃には、かなり親しくなっていた。 「奥さん、いらっしゃるんでしょ」 「いる。一人だけ」 「お子さんは」 「いる。一人だけ」  長女が生まれて間もない頃だった。  職場の同僚に戸籍調べの滅法好きな男がいて、保村はなんとなくその男が好きになれなかった。会議ではどうでもいいことを長く喋る。もともと相性がわるく、  ——厭《いや》なやつだな——  と思っていたところに、酒場へ行くとホステスを相手に、 「いくつ? どこの生まれ? どこに住んでるんだ? マンションか。高いだろ。彼、いるのか? 結婚は? 同棲くらいしただろ」  根掘り葉掘り聞く。  相手は迷惑そうにしているのに……。答えたくないことだってあるだろう。あまりよい趣味とは思えない。みすみす相手に嘘《うそ》をつかせるようなことをしてはいけない。親しくなれば、おのずとわかることだ。  ——あれは、やりたくないね——  保村の中にそんな意識があったものだから、万里子についても個人的なことはほとんどなにも聞かなかった。万里子もあまり喋らない。  横浜の生まれ。三人兄弟のまん中。両親は健在。駒込に住んでいて、彼女は短大の英文科を出ているらしい。  少しずつ親しくはなったけれど、本当に親しくなるまでには、まだまだいくつもの壁を崩さなければいけなかった。  容姿は美しい。保村の好みと言ってよい。どこが好きかと聞かれても……まあ、黒眼がちのまなざしがよい。表情が変化に富んでいる。睫毛《まつげ》の長さとも関係があるのだろう。眼を伏せると、上睫毛と下睫毛の先端が重なる。その表情がわるくない。  痩せているが、胸は……多分小さくはあるまい。くっきりとした曲線を描いて脹らんでいるだろう。  ——こんなガール・フレンドがいてもいいな——  男はだれでもそう思う。思いながらもためらう。  ——深入りをして、よくないことが起きるのではあるまいか——  一線を越えて親しくなるとすれば、それなりの覚悟と分別がなくてはいけない……。  同じ頃、労働組合の職場委員の選出があって、保村は仕事が忙しいし、興味も薄いし、委員になんかまるでなるつもりはなかったのだが、組合のボスに膝詰《ひざづ》めで説得され、引き受けてしまった。  課長に呼び出され、 「職場委員を引き受けたんだって」 「まずかったでしょうか」 「いや、まずいことはなにもない。みんながやってる。いい経験にもなる」 「はい……?」 「しかし、君はやらないつもりでいたんじゃないのか」 「はい」  この課長は大学の先輩で、よく誘われて昼食を一緒に食べたりする。心境を話したこともあっただろう。 「それがいけない。いったん決心をしたら、貫かなくちゃあ。簡単に変えちゃ駄目だよ。君は東京っ子なのかな。淡白で、ちょっと執念の足りないところがある。長所も短所も匙《さじ》加減ひとつだけどな。もう少ししつこくてもいいな、自分の考えに対して。そうじゃないと、仕事もうまくいかない。多少まちがっているようなことでも強引に突き進むと、いい結果が出ること、あるよな」 「そうですね」  思い当たることが、なくもない。人間関係のトラブルでも、  ——俺が譲ればそれでいいんだな——  そう思うと、保村はわりと簡単に譲歩してしまう。仕事の面ではマイナスになることが多い。課長はそれを言ってくれたのだろう。 「けちをつけるんじゃないぞ。長い眼で見て、少し気をつけたほうがいいと思うんだ」 「わかりました」  サラリーマンは仕事のことがいつも頭の中に埋まっている。当然のことだ。起きている時間の大部分が仕事で占められているんだから……。職場で考えたことは、そのまま私生活にも影響を与える……と、あのときはそう明確に意識したわけではなかった。むしろあとになって気がついた。意識していたら、かえってスムーズに行動がとれなかったかもしれない。  頭のどこかに、  ——迷っちゃいけない。もう少し強引にならなくちゃあ——  そんな意識が潜んでいて、万里子と会っているときに、それが動きだした。  ——万里子だって厭ならば、こんなにしょっちゅう会ったりはしない——  保村に妻子のあることは、ちゃんと伝えてある。男と女が親しくなればどうなるか、万里子だって、それを知らない年齢ではあるまい。むしろむこうはもどかしく思っているかも……。  日比谷公園のレストランで食事をして、外に出たところで万里子の手をコートのポケットに引き入れた。前を見たまま、 「あなたが好きだ」  薄暗い灯の下で呟いた。 「ええ……」  万里子は短く答えた。  聞こえなかったみたいに。まるで言葉の重さを知らないみたいに……。  戸惑いが保村の喉《のど》のあたりで蠢《うごめ》く。  好きだという気持に偽りはない。好きだからこそ、こうして何度も会っている。どういう女性か、まだよくわからない部分もあるけれど、そんなことを言っていたら、いつまでたっても男と女のあいだに�本当にわかる�などということはありえない。どこかで賭けなくてはいけない。  とはいえ、妻子のある男が家族を捨てる覚悟もなく「好きだ」なんて……簡単に言っていいものかどうか。いいかもしれないが、 「でも、嘘でしょう。そんなの、ただの遊び……でしょ」  そう言われたら反論はむつかしい。どこかにやましさがある。  ——そこまで厳密に考えることもないんだよな——  そんなことを考えるから強引になれない。  足を止め、もう一度、 「あなたが好きだ」 「どうしたんですか、急に」 「急は急なんだけど……少しずつ心が傾いて、このくらい好きなら告白してもいいだろうと思って」 「理屈っぽいのね。で、どうすればいいの、私のほうは?」  女のほうが落ち着いている。 「あなたを……抱きたい」  思いがけない言葉がこぼれた。課長の忠告があと押しをしたのではあるまいか。 「強引なのね」 「うん。どうしても」  無言のまま少し歩いたが、今度は万里子が足を止めた。 「じゃあ、貯金をさせてくださらない」  意味がわからない……。 「どういうこと?」  保村が尋ねた。 「いいわよ。私も保村さんのこと好きだから。でも、今夜だけ……。ね、約束して」 「どうして」 「そういうこと、できなくなるの。もうすぐ」 「結婚とか?」 「そのへんね」 「貯金て、言ったよな」 「そう。貯金よ」  保村が想像したのは、万里子の結婚の相手が銀行員で……。定期預金の勧誘のノルマがあって……。しかし、ちがうな。 「わからない」 「今夜は保村さんの言うことを聞くわ。そのかわり、いつか私がお願いすることを聞いてくださいな」 「どんなこと?」 「わからない」 「いつかって、いつ?」 「それもわからないの。十年後かもしれないし、二十年後かもしれないし、一生お願いしないかもしれないわ」 「なるほど」  貯金の意味がようやくわかった。  言ってみれば、サービスの貯金。今夜、万里子は貸し方になり、いつか保村は万里子にその返済をしなければいけない。 「いい?」 「いいよ」  話しながら公園の外に出た。  保村はタクシーを止め「千駄ヶ谷まで」と小声で告げた。 「英語にフェイバーって単語があるんだ。親切とか好意とか」  饒舌《じようぜつ》になってしまう。照れ隠しの一つらしい。 「ええ……?」 「あなたは今フェイバーを貯金したわけだよな。いつか請求があったら、そのときは僕がフェイバーを返さなくちゃいけない」 「そう。正解」 「英語の辞書を引くと、フェイバーのところに�女が男に許す最後のもの�って解釈が載《の》っていた。中学生のときにはなんのことだかわからなくて、高校生になってわかってドキンとした」 「あ、ほんと。保村さん、英語できたんでしょ」 「そうでもない。好きだったけど」 「好きなら上手よ」 「そうとも言えないよ。下手の横好きってこともあるから」  話を繋《つな》ぎながら保村は考えた。  ——どういうことかな——  自分で誘っておきながら釈然としない。あまりにも簡単に応じられてしまった。  ——近く結婚をするような話だったけれど——  きっとそうだろう。  貞淑な人妻になる前に、最後の冒険をする……。女性には、そんな心理があるのかもしれない。 「もう少し先まで行って」  千駄ヶ谷の駅前を過ぎ、その手のホテルの並ぶ路地の入口で車を止めた。 「ここ?」 「ごめん。へんなところで」  手を握って薄暗い門をくぐり抜けた。自動ドアが開いた。 「いらっしゃいませ」 「休憩を」 「はい」  万里子とは言葉を交わさずに部屋へ入った。  料金を支払い、係りが立ち去ると、万里子が、 「恥ずかしいわ。こんなになってんのね」  と、両掌で頬を包みながら周囲を検分する。 「僕だって、よくは知らない」 「本当に?」 「うん」  色だけのお茶をすすった。香りも味もない。 「なんだか、変」  万里子は、狂った思考をもとへ戻すみたいに強く首を振る。 「結婚するのか」 「聞かないで」 「うん……」  手を取り、肩を抱き、唇を重ねた。  ブラウスの襟を割って……保村の予測はよく当たっていた。  細身の体にまるい毬《まり》のような乳房が弾んでいる。いかにも感じやすそうな乳首がツンと上を向いていた。  男を知らない体ではなかった。  しかし薄闇の中で交わった記憶は、その闇の色と同じようにとりとめがない。保村は夢中だった。自分の仕草を……相手の仕草を、一つ一つ確かめるほど冷静ではなかった。 「もう会えないのかな」  結婚するのなら、当然そうだろう。  そうでもないのかな。貯金もあることだし……。 「わからない。連絡します。さよなら」  駒込の、万里子の家の近くまで送って行って別れた。 「さようなら」  それが最後だった。  間もなく結婚の通知が届いた。  ——むしろ万里子のほうが借りを返したのかもしれない——  つまりスペイン語教室で知りあってこのかた、おおむね保村のほうが万里子に対してサービスを注いでいた。ハートも使ったし、まあ、たいした金額ではないけれど、お金も使った。それが男の役割だろう。保村としてはなんの不満もないけれど、万里子は万里子で負担を背負ったまま別れるのが厭だったのかもしれない。だから一度だけ……保村はそう解釈した。それが当たっていたのかどうか。  そのまま六年たち、突然電話がかかって来て、万里子と昼休みに会うことになった。  約束の時間に少し遅れて着くと、万里子はケーキのケースを覗《のぞ》いていた。うしろ姿だが、すぐにわかる。スーツの色でわかる。  どういう色かと聞かれても保村はうまく説明ができないけれど、万里子には好みの色がいくつかあって、それ以外のものはけっして着ない。  今日は、紺とグリーンのツー・ピース。くるりと振り向き、 「お久しぶりです。ご迷惑じゃなかった?」  万里子は深々と頭を垂れた。  いくつもの非礼を詫《わ》びるみたいに……。 「こちらこそ。なにか食べるでしょう」 「保村さんは?」 「うん。軽いもの」 「私もつきあうわ」 「じゃあ、二階へ行って」  レストランにあがり、メニューも見ずに保村はスパゲティを注文した。昼間からあまりボリュームのあるものは食べにくい。 「私も同じもので」  万里子はほとんど変っていない。むしろ念入りに化粧をしていて、  ——きれいな人だったんだよなあ——  と、あらためて容姿の美しさを思いなおした。  歯並びがきれいで、これは、  ——昔からそうだったろうか——  以前はあまりよく見ていなかったらしい。 「貫禄がついたみたい、保村さん」 「少し太ったからな。来月で三十五だもん」 「そうじゃなく。やっぱり……」  保村は運ばれて来た料理をフォークでまるめて口に移しながら、 「お子さんは?」 「いるわ、一人。おたくは?」 「うん。二人になった。どこに暮らしているの」 「辻堂」 「ちょっと遠いね。ご主人はなにをしている人なの?」  万里子は首をすくめて、 「戸籍調べなの? きらいだったはずじゃない」  口調がすぐに昔に戻る。 「うん。好きじゃない」 「じゃあ、いいでしょ。時間もそんなにたくさんはないでしょうし」 「あなたらしい」  昼休みのうちに、なにをどう話そうか、万里子はあらかじめ考えて来たらしい。 「さっき電話で�お願いごとがある�って言ってたけど」  と保村が水を向けた。 「ええ。あい変らず突然で……。なにも聞かないって約束してくださる?」  万里子は眼を伏せたまま言う。睫毛の先端が重なり、この表情が一番よく記憶に残っている。 「うん?」  息を整えるようにしてから、 「旅に連れてってほしいの」  と、上眼遣いの視線が飛んで来た。 「どこへ」 「どこでも。景色のいいところ」 「いつ?」 「ウィークデイ。無理かしら。一泊旅行。来週か、再来週か……」  保村は笑いながら、 「貯金をおろしに来たわけか」  電話を切ってからずっとそれを考えていた。なにしろあの夜に別れて、その次が今日なのだから……。 「覚えていてくださったのね」 「忘れられない」 「あつかましいわね、私って。でも、そんな……押しつけがましいことじゃなく……たまにはこんなことがあってもいいんじゃないかって……軽く考えてくださいな。無理なら無理っておっしゃって。あい変らず身勝手で、変な女なんですから」 「でも、どうして」 「聞かないでって言ったでしょ」 「わかった。聞かない」  お客がお金をおろしに来て、銀行がその理由をいちいち尋ねたりしてはいけない。 「ほんの気晴らし、つまらないことよ」 「一泊でいいの?」  手帳を開いてスケジュールを見た。 「ええ。いくら私だって、そんなにひどい気ままはできないわ」  保村はちょうど休暇をとろうと思案しているときだった。 「来週の火曜と水曜。それならなんとかなる」 �なんとかする�のほうが正確だろう。 「いいわ。ごめんなさい」 「でも、どこへ行く?」 「だから……どこへでも。滅多にいかないようなところ。景色がよくって」 「そう……。響灘。少し遠いけど」 「どこにあるの」 「山口県。下関の上のほう。暖流と寒流がぶつかって音をたてている。すばらしい海らしいよ。前から行きたいと思っていたんだ」 「すてきね、響灘だなんて。でも、行けるのかしら、一泊旅行で」 「大丈夫だろ。飛行機で宇部まで行って、あとは車だな。朝、九時くらいに出発して、翌日は夕方七時くらいの見当で……」 「私は平気よ。保村さんは本当に大丈夫なの? ウィークデイに休んだりして」 「休暇はとったほうがいいんだ」  手短かに職場の事情を説明した。 「うれしいわ。無理を言ってすみません。保村さんならきっとつきあってくれると思ったの。なんにも聞かずに、サラッと……」 「日常性からの脱却かな」 「えっ? むつかしいのね。でも、そんなとこね、きっと」  だったら日常のじめじめしたことは聞かないほうがいい。  旅の手はずは保村が整えることにした。万里子は身一つで羽田のロビイに来てくれればそれでよい。 「じゃあ来週早々にでも電話をください」 「ええ。よろしく」  自動ドアを出たところで別れた。  ——思いがけないことがあるものなんだなあ——  お濠ばたの柳が芽をふき、陽気がすっかり春めいている。保村はコートを脱いで、身も心も軽い。だれかが見たらひどくうれしそうに映っただろう。 「命の洗濯をします」  休暇の理由はそれだけで押し通した。  航空券を手配し、ホテルの予約もウィークデイだからなんとか押さえることができた。  出発の前の日、ささいな好運が重なった。 「保村さん、書留ですよ」  届いた現金書留を、  ——なんだろう——  裏返して差出人を見ると�白田武臣�と書いてある。  ——ああ、そうか——  一万円札が五枚……。達筆の手紙がそえてある。  保村が大学生だった頃、この差出人の長男の家庭教師を務めた。志郎君と言って、今でも年に一度くらいは会っている。  去年の暮、白田武臣氏から電話があって、 「お世話になっている人の息子さんが、あなたの母校を受験することになってね、だれか親しい先生を紹介していただけないかな」  という相談だった。 「紹介するのはかまいませんが、おそらくなんのお役にも立てないと思いますよ」  これは本当だ。学長の息子だって落ちる。なんの情実もない。助教授になったばかりの友人がいて、母校の受験事情については保村もひと通り聞いて知っていた。 「ええ。それはわかってます。気休めと、それから、あとでどのくらいの成績だったか……今年は無理かもしれないけど、来年のために一応知っておけるものなら知っておいたほうがよかろうかと思って。むこうの親御さんがそう言うんですよ」 「当たってみます」  助教授に電話をかけてみると、 「なんの役にも立てないよ。俺たち、かえってせいせいしてんだけどな。せいぜい発表の三十分くらい前に結果がわかるくらいかな。点数を知るのは簡単だよ。希望があれば教えることになってるから。その息子さんに会って�しっかりしろ�って言ってやるだけなら、いいけど、くれぐれもへんな期待は抱かせないようにしてくれよ」  と、予測した通りの返事だった。  それでも白田氏は紹介してほしいと言うので、保村は紹介の労をとった。ただそれだけのこと……。  手紙は丁寧な感謝を述べたあとで�本来は一席でも設けて御礼すべきところですが、大兄も御多忙のことと察しあげ、まことに、まことに失礼とは思いましたが、心の一端をお送りいたしました。私の頭の中では、大兄が学生でいらした頃の御様子が、まだ抜けずにいるようです。どうぞこころよくお収めください�と現金を送る非礼を詫びている。  ——どうしたものかな——  やましいことはなにもしなかった。だがこうした金銭は、多少のやましさと引き換えに入手するものではあるまいか。  ——そう堅く考えることもないか——  送り返したりしたら、かえって角が立つ。  ——志郎君と会ったときに御馳走してやればいいな——  なにはともあれ、万里子との旅を前にして、このお金は役に立つ。  ——神様が応援してくれてるんじゃあるまいか——  保村は馬鹿らしいことを考えて、笑いを噛《か》み殺した。 「おはようございます」  万里子の顔が上気している。先日よりさらに若くなったみたいに見える。 「いい旅にしたいね」 「はい」  空は快晴。窓際の席がとれた。 「タバコ、喫うの?」 「いや、喫わない。でも喫煙席のほうがいいんだ」 「どうして?」 「子どもがいない。神経質そうな人もいない。タバコのほうがまだいい」 「ああ、そういうこと」  並んで腰をおろし、そっと万里子の手を握った。轟音《ごうおん》とともに窓の外の風景が傾き、保村は軽いめまいを覚えた。  ——体ばかりじゃない。心が空を飛んでいる——  万里子は眼を閉じていたが、本当に眠っているのかどうか、指先の感触は目ざめていた。  イヤフォンを取って軽音楽を聞き、落語に切り換えた。機体が揺れ窓の外が白くなる。耳が痛む。 「着いたよ」  宇部空港に降りてタクシーを拾った。予算には、五万円のプラス・アルファがある。タクシーのメーターに気を遣うこともあるまい。 「西|長門《ながと》のホテルまで。下関を抜けて行く道しか、ないの?」 「そうですね」 「どのくらいかかる?」 「メーターですか」 「いや、時間」 「一時間半くらい」  運転手は三十そこそこの男。保村たち二人をどんな関係だと思っているのだろう。  しかし、運転席のうしろ姿は、そんなことなど、さほど気にかけているようには見えない。  車はいくつもの街を通り抜ける。 「ハッピイなんだね」  小声で万里子に尋ねた。  万里子は昔から突拍子もないことを企てる人ではあったけれど、人妻がこんな旅に出て来るのは、よくよくの事情があってのことだろう。幸福じゃない理由のほうが考えやすい。  万里子は、少し間を置いて、 「ハッピイよ、今」  と、膝の上のハンカチを伸ばしながら答える。「今」という言葉にことさらアクセントを置いて。  ——今、この瞬間だけはハッピイよ——  と、そう答えたのだろう。保村の質問の意味を充分に承知していながら、わざと近況について語るのを避けたらしい。言葉の抑揚はそう聞き取れた。 「あのね、近所に魚屋さんがいるの」  ガラリとちがったことを言う。 「うん?」 「その魚屋さんのお兄ちゃんがね……気をわるくしないで。あなたに似ているの」 「へえー」 「もっと若いし、魚屋さんだから威勢がいいんだけど、シャイなとこがあって……笑い顔が似てるのね。二軒、魚屋さんがあるんだけど、たいていそっちへ行くわ」 「ふーん」 「だから、私のほうは結構あなたのこと、思い出しているのよ」  女は、こんなふうな言い方で男の気を引くものなのだろうか。  下関を抜けると、風景が少し鄙《ひな》びたものに変る。 「あ、きれい」  左手にまっ青の海が広がった。  なるほど、これは美しい海だ。潮の香りが車内にまで染み込んで来る。 「海らしい海だ」 「近ごろ、まがいものばっかり見せられているから」  道路と海とのあいだに細い鉄路が頼りなさそうに続いている。 「これ、何線?」 「山陰本線ですよ」  と運転手が答えた。 「それしかないよな、ここを走っているのは」  とても主要幹線のようには見えない。  万里子の手を握りながら、 「うっかりしてたんだよな」 「なーに?」 「本州の形は知ってるけど、萩より先のほうになにがあるか、あんまり考えたこと、なかったよ」 「ええ……?」  スカートの上に本州の尻尾《しつぽ》のあたりを、つまり中国地方の先端を描いて、 「こっちが瀬戸内、こっちが日本海。広島、徳山、宇部、下関……瀬戸内海側のほうは先端までずーっと知ってるけど、日本海側は松江があって、出雲があって、あとは萩くらいで、その先どうなってるか、考えたこともなかったなあ」  住んでいる人は怒るだろうけれど……。当然陸地はある。  しかし、下関からまっすぐ北に上るあたりは、つまり、今走っている道筋はガイドブックにもほとんど記されていない。 「はじめてなの?」 「そう。このへん一帯を響灘って言うらしい」  地図にはそう書いてある。  保村は少し勘ちがいをしていた。響灘はもう少し狭い地域だろうと……まさに崖《がけ》の下で暖流と寒流とが音をあげて衝突している海だろうと、そんな光景を想像していたのだが、どうもそうではないらしい。  このあたりで二つの潮流が交わっているのは本当だろうが、どう耳を澄ましてみても波の響きは聞こえて来ない。潮のぐあい、風のぐあい、響灘の響きはいつ轟《とどろ》くのだろうか。 「むこうは韓国でしょ」 「当然そうなるよな」  一時間あまり走って海ぞいのホテルに着いた。早速部屋に案内してもらい、 「あらッ、なにかしら」  窓の外を見て万里子が声をあげた。保村も窓辺によって、 「ほう、やるもんだねえ」  と頷《うなず》いた。  すぐには風景の正体がわからなかった。  少しずつわかった。  ——これが響灘——  想像とは少しちがっていたけれど、コーヒー店のママは、まるっきり嘘をついたわけではないらしい。  白い砂浜があり、海を挟んで二、三百メートル沖あいに小島がある。  その砂浜から小島にかけて一直線に波がぶつかり、白く騒いでいる。波打ち際が沖に向かって走っている……。そんなふうに見えた。  こういう波が立つのは、右と左から、北と南から、二つの流れが押し寄せて来て、ここでぶつかるからだろう。はじめて見る風景だった。  ——響灘にはこんな浜がところどころにあるのだろうか——  途中にはなかった。いずれにせよ、ここが暖流と寒流の衝突点の一つであることはまちがいない。外に出れば波のざわめきも聞こえるだろう。 「行ってみよう」 「うん。行こ」  旅の装備を解き、ホテルのサンダルを履いて海辺に出た。  むしろ穏やかな風景である。この付近だけ岩礁が切れて砂浜が伸びているから、夏にはきっとよい海水浴場になるだろう。ほとんど人影もない。手を繋いで歩いた。  しかし近づいてみると、海はそう浅くはない。二つの海流がぶつかるあたりは、やはり猛々しい。はっきりと海のざわめきが聞こえた。 「これが響灘なの?」 「そう。これが響灘だ」  わけもなく誇らしい。  万里子がサンダルを脱ぐ。白いふくらはぎが走りだし、砂浜に足跡が残り、波がたちまちかき消す。  潮騒の中で髪がなびいている。  保村も走った。  心が少年に返って行く。  万里子に追いつき、腕を伸ばして抱きあげた。万里子は笑いながら身をよじる。まるで大きな魚みたいに……。もつれて転げてしまった。 「ひどい」 「暴れるからだよ」  砂浜で万里子は膝をかかえ、保村は足を伸ばした。 「来て、よかったわ」 「本当に?」 「ええ」  不思議な海が二人だけの風景となって騒いでいる。 「こんなことって……あるのね」  万里子の眼はまっすぐに海に向いているけれど、言葉はざわめく波について言ったのではあるまい。 「あるんだよ」  一本の電話から始まった……。  いくつかの障害があった。  なによりもまず、心の障害……。万里子がなぜこんなことをする気になったのか、ためらいのなかったはずがない。  もちろんだれかに知られてよいことではない。文字通りの不倫……。どちらにとっても陥穽《かんせい》はすぐそばにあいている。  心のやましさは、ほかにもある。  ——こんなことのために休暇をとっていいのだろうか——  保村はそれを思い、万里子も同じように、  ——こんなこと、やっていいのかしら——  家に残して来た子どものことを考えているのではあるまいか。だが、とにかく決断をして、ここまで来てしまった。  後悔はない。  むしろ保村は決断一つで、こんな甘美なひとときが生じうることに驚いている……。それが偽りのない気持だった。  しばらく海辺を散歩して部屋に戻った。部屋にもバスルームがついているが、地下の大浴場のほうがすてきらしい。浴衣を持って階段を降り、 「少しだけお別れ」 「ご機嫌よう」  二つの浴場に別れた。  男風呂はガラス窓が海に接して広がっている。湯船の水面が波の高さと等しい。だから湯の中に身を沈めると、波がすぐ眼の前に寄せてくる。海の中に沈んでいるような錯覚を覚えた。  島が見える。  少しずつ宵闇《よいやみ》が迫って来て、島の灯が二つだけ光っている。  ——人が住んでいるのだろうか——  もう一つ灯がついた。人家かもしれない。  風呂から出て売店のみやげものを眺めていると、 「いいお風呂」  と、万里子があがって来た。  髪を束《たば》ねて捲《ま》きあげ、頬が薔薇《ばら》色に上気している。ふっと肌が匂う。 「海のすぐそばだった? 女風呂も」 「ええ、そうよ」 「窓が広くて?」 「そう。夕日がすてきなんですって」 「そうだろうな。今日は雲があったけど。海に沈むところが見たいね」 「でも島があったでしょ、沖のほうに」 「さっきの島だよ」 「ええ。たいていはあそこに日が沈んじゃうんですって。海に落ちる夕日を見るには、お正月がいいらしいわよ」 「なるほど。季節によって太陽の沈む位置が変るわけだ」 「そうみたい。お正月に来たいわね」 「来れるかな」 「無理ね」  夕食は別棟の食堂に案内された。 「飲む?」 「飲みたい」  三本の酒をゆっくりと飲んだ。  部屋に戻ると、布団が並べて敷いてある。テレビをつけ、しばらくはとりとめのない会話を交わした。 「あのあと、すぐに結婚をしたのか」 「まあねえー」 「僕と会ったときは、もう決まっていたわけだ、結婚が……」 「そうでもなかったけど……ぎくしゃくしてたのよ。厭あね、こんな話」 「うん。知ったからって、どうってこと、ないもんな」 「そう……。あのね」 「うん?」 「東京へ帰っても……あとを引かないでくださいな」 「この前と同じか」 「ええ。ごめんなさい」  事情はなにもわからないけれど、万里子が考えていることはおおよそ察しがついた。  日常性からの脱却……。くり返してはいけないのかもしれない。保村は、 「あなたの好きなように」  と呟き、そばに寄って肩を抱いた。  唇を重ねた。 「一期一会《いちごいちえ》……。わかります?」 「ああ。一期二会かな」 「そうね。二回あったから。でも……これはお茶の言葉でしょ。気持の持ち方を言ってるのよ。いつも一生に一回しか会えないんだと思ってやりなさいって……」 「一期三会になるかもしれない」  胸をさぐると、あい変らずしっかりと量感のある乳房が弾む。  ヒクン、と女体が震えた。 「そんな気持よ。ただの浮気かもしれないけど……」  と万里子は呟く。 「忘れられなかったよ」 「本当に?」 「本当だ」  少し嘘が混っている。  忘れはしなかったけれど、さりとて鮮明に覚えていたわけでもない。はじめから記憶のはっきりしない部分があった。  この前は……風のように吹いて、たちまち吹き去って行った情事だった。薄闇の中で、なにもかもおぼろで、不確かだった。  指の動きに応えて、乳首がツンと上を向く。  この感触はよく覚えている。  ——恥毛はどんな感じだったろう——  指先に触れ、  ——ああ、少し粗《あら》い感じ——  と、思い出した。  たとえば、いつか訪ねた町……。同じ道をたどって少しずつ思い出す。前には気づかなかったことを、あらためて知る。町も少しは変っているだろう。もしかしたら、すっかり変っているかもしれない。 「こんなに明るいところで?」 「いけない? 今度はしっかりと覚えておきたいから」 「わるい趣味」 「そうかな」 「そうよ」  しかし、万里子はそれ以上は抗《あらが》わなかった。 「恥ずかしい」  小さく呟いて万里子は布団の中に滑り込む。  もつれあううちに、白い女体が灯の下にあらわになる。指先に熱いぬめりが伝わって来る。女体ははっきりと熟していた。  かすかに甘い体臭が匂う。  体の昂《たか》まりにつれ、少しずつ匂いを増す。  ——前もそうだったろうか——  わからない。多分、そんなことはなかった。第一、昂まりの度あいがちがっている。 「ねえ、ねえ」  万里子はねだるような声を上げ、歓喜はとめどなく深まって行く。  ——前はこうではなかった——  女体は明らかに変っている。  無理もない。六年の歳月が流れている。女は結婚をして、子どもを生んだ。  体を重ねると、万里子は足を揃《そろ》えて伸ばす。その仕草には記憶があった。  保村の中にも歓喜が急速に昂まって来る。 「万里子さん」  名を呼んだ。  万里子は少し眼を開け、首を左右に振る。呼ばないでくれと願っているみたいに……。  名を呼ぶことは愛の告白かもしれないけれど、呼ばれた相手は一瞬の理性を呼び起すかもしれない。愛の営みに没頭するためには、そんな意識はけっしてプラスにはならない……。  万里子はふたたび眼を閉じた。眼の前にある現実を拒否するみたいに。一方、保村は、抽送《ちゆうそう》をくり返しながら、  ——俺は保村秀一なのだろうか——  と訝《いぶか》った。  別人になったわけではないけれど、今、この瞬間に名前なんかなんの意味もない。ただの男。ただの裸体。布団の上で背中だけが動いている。  そして、胸の下にいるのは、ただの女。ただの裸体。細い腕が背中に絡んでいるだろう。万里子にはちがいないけれど、万里子であることの意味はどんどん薄くなる。  体液がほとばしる。  女体がそれを捕らえる。  汗ばんだ匂いが広がる。  そのままの姿勢で保村は女体が少しずつ万里子に戻るのを待った。  保村は少しまどろんだ。  短い眠りだったが、無明の穴におちて行くような深い眠りだった。  つぎに眼をさますと、灯りが消え、万里子は隣の布団に体を移していた。  軽い寝息が聞こえる。万里子も眠っているらしい。眼を凝らすと優しい面《おも》ざしが映った。  ——なぜだろう——  保村は、どうしても万里子が突然電話をかけて来た理由を考えてしまう。  聞いてみたところで、万里子は話すまい。それに……聞いてしまえば世間によく転がっているような月並の話。そして、八割がたは正しいが、ほんの少しちがっている。人の心をくまなく言葉に変えることはできない。  ただの気まぐれ……。  見かけは軽いが、動機において深刻な気まぐれというものもあるだろう。  連想が広がる。  ——木塚がそうだったな——  去年、自殺をした同僚。自殺の少し前に彼は、通りがかりの小学校の運動会を覗き、父兄にまじってトラックを疾駆した。一等賞、賞品はなんのためだったのか。わからない。  ——万里子も死ぬんじゃあるまいか——  突然「一緒に死んでほしい」と頼まれたりして……。闇の暗さはとりとめのない思案を生む。  ——暗い想像はやめておこう——  響灘には楽しさのためにのみ来たのだから。  それに、万里子は大丈夫だ。決定的な破綻《はたん》はない。そんな気がする。自分でそれなりのバランスをとる。今日の旅そのものが心の天秤《てんびん》に平衡を与えるためではあるまいか。つまり、心になにか不満がある。こころよい旅をして、プラスのおもりを加える。その不満がなんなのか。やっぱりわからない。  ——それよりも、体が変ったな——  この想像のほうが楽しい。  女体の内奥からはっきりとした歓喜が伝わって来た。その感触が保村の中に残っている。  ——本当にこれでおしまいなのかなあ——  万里子は「あとを引かないでくださいな」と言っていたけれど、このまま終ってしまうのは残念でならない。なにか手だてがないものだろうか。  ——俺はお人よしのところがあるからな——  半年ほど前、学生時代の友人が会社に訪ねて来た。杉田といって、高校で二年間机を並べた仲だった。「事務機器の会社を始めた」というので総務の同僚を紹介した。ところがほとんど実体のない会社だったらしい。むこうははじめから保村を騙《だま》すつもりで来たようだ。とてもそんな様子には見えなかった。少年の頃と同じような笑顔だった。表皮の下に黒い野心が潜んでいたなんて……。相手がだれであれ、欲望のありかに眼を配ることを忘れてはなるまい。  いつのまにか眠った。 「起きていらっしゃる?」  細い声を聞いて眼を開けた。 「うん」  薄闇の中で万里子の眼がポッカリと開いている。まなざしが微妙に揺れている。  ——あれほどの歓喜を知っているんだから——  万里子に性の欲望のないはずがない。  ——それを望んでいる——  その充足のために来た旅ではないのだろうか。  たとえば、夫と子どもと、そこそこに幸福な家庭を営んでいたとしても、性には満たされない部分があって、その渇望が万里子を冒険に向かわせたとか……。男なら充分にありうることだ。女にはけっしてないことなのだろうか。  カーテンのすきまが少し白んでいた。夜が明け始めているらしい。 「よく眠っていらしたわ」  それには答えず、万里子の布団へ体を移した。  甘い匂いが騒ぐ。ぬくもりが脚《あし》に伝わる。乳房が胸に触れ、乳首のありかがわかった。  女体は歓喜の余燼《よじん》を残している……。肌の下に埋もれ火を隠している。保村の手が届くたびに燃えて走りだす。野火のように……。 「濡《ぬ》れてる」 「厭、恥ずかしい」  指をそえると、サクリと割れて引き込む。  最前より一層激しい歓喜だった。  絞るような強い抱擁《ほうよう》の中で保村は果てた。 「今日はどうするの?」  万里子の声が弾んでいる。表情が美しい。上機嫌になればなるほど面ざしの映えて来る人だった。 「萩まで行って行けないことはないけど、ちょっときつい」 「萩は行ったことあるわ」 「そう。いつ頃?」 「ずいぶん前だけど。ゆっくりしたいわね」 「青海《おうみ》島のあたりまで行って、あとは秋吉台を抜けて宇部空港に戻る」 「秋吉台って鍾乳洞《しようにゆうどう》のあるところでしょ。そこにも行ったわ」 「車で通るだけだ」  カーテンを開けると、朝の海が光っていた。 「波が変ったみたい」  と、万里子が指をさした。  あい変らず沖あいの島に向けて一筋の白い波が伸びている。 「そうかな」 「昨日は右から寄せてたでしょ。今は左の波のほうが大きいわ」  左と右から、つまり南と北から波が寄せ、ぶつかって白い筋を作っているのだが、どちらの波が大きいかによって波のかぶさりようが変って来る。たしかに今は左から波がかぶさって崩れている。昨日はどうだったろう。保村は覚えていない。 「男と女みたい」 「どうして」 「知らないところから寄せて来てぶつかって……。愛の大きさがちがうの。そのときどきで」 「なるほど」  昨日と同じように連れだって地下の大浴場へ降りた。 「この頃、�ザ温泉�てのがあるんですって」 「なんだい、それ」 「自分の家で温泉に入れるの」 「ああ、入浴剤だろう。別府温泉の粉とか、登別温泉の粉とか」 「ううん。そうじゃなく、お湯が還流式になっていて、清浄装置がついてて、いつでも温かい温泉に入れるんですって」  食堂へ行って朝食をとり、部屋へ戻った。 「しかし、いくら温泉があっても、わが家じゃこの景色がない」 「本当。きれいな海ね……。あ、駄目」  窓辺に立った万里子を羽がい締めにする。ブラウスの襟を割り、窮屈そうな乳房を解放した。太|腿《もも》の奥が薬で焼いたようにくすんでいる。 「もう出発しなきゃ」  と、万里子は抗ったが、結局組みしかれてしまった。 「また汗が……。ひどいわ」 「ごめん。温泉はいつだって入れる。また行こう」 「もうたくさん。おかしくなっちゃう」 「じゃあ、僕だけちょっと」  保村が汗を流して部屋へ戻ると、万里子は化粧を終っていた。  出発の時間がすっかり遅れてしまった。  タクシーを待ちながら、 「満足?」  と保村が尋ねると、万里子は少し蓮《はす》っ葉《ぱ》な仕草で背広の肩を叩いて、 「厭あね。でも満足よ」  と、首をしきりに振っていた。  保村は旅全体の印象について尋ねたのだが、万里子はもっと狭い意味にとったらしい。なにしろ三回も抱きあってしまったのだから。  ——これでいいのかな——  万里子は心の安らぎを求めて保村に会いに来たのではあるまいか。語りあうことよりも抱きあうことにだけ時間を使ってしまって……。それが万里子の望みだったのなら、かまわないけれど……。しかし、久しぶりに会って、二人はなにを話せばよいのだろうか。  油谷《ゆや》湾を眺め、青海島まで走った。 「島めぐりの遊覧船が出ている」 「船はいいわ。散歩しましょ」  海ぞいの遊歩道を歩いた。 「人間て、みんなエゴイストでしょう」  万里子が体のうしろで手を組みながら呟く。 「ああ」 「人を愛することなんて、できるのかしら」 「たしかにむつかしい。結局は自分しか愛していない」 「でも、私って変ね。抱きあっているときだけは�私、この人のこと、愛してるのかもしれない�って思えるの」 「えっ、本当に」  すぐには意味がわからない。 「厭あね、こんな話。たいした意味じゃないの。そう思っただけ」  万里子はスキップを踏みながら崖の突端に出る。  保村は万里子の言葉を反芻《はんすう》しながらあとを追った。  万里子の歓喜は確かなものだった。女体は……一人ではあの歓喜を味わうことができない。だから女はそれを与えてくれる男に対して�この人のこと、愛してるのかもしれない�と感ずるのだろうか。だったら、それもまた形を変えたエゴイズムではないのだろうか。  ——もしかしたら、夫とあまり抱きあっていないのかもしれない——  万里子は、抱きあうことの確かさを思い出すために保村を旅に誘ったのかもしれない。当たらずとも遠からず。その周辺に正解があるようにも思えた。  ——それとも——  もう一つ、保村の脳裏にわだかまっている思案がある。  青海島から宇部空港まで五十キロあまり。山越えの道路だから二時間はかかるだろう。飛行機の時刻にあわせて出発した。  オレンジ色のガードレール。 「山口県の夏みかんの色にあわせて、この色にしたんですよ」  と運転手が説明してくれた。 「いい道が走ってるんだね」 「道はよくなりましたね」  いつのまにか万里子は首を保村に預けたまま眠っている。そっと手を握った。  車のメーターが二万円を越えた。昨日の分とあわせて四万円あまり。  ——特別収入があったからなあ——  いじましい話だが、家族持ちのサラリーマンは遊びの資金にそう恵まれていない。旅の直前に白田武臣氏から送られて来た現金は、文字通り天の恵みだった。タクシー代くらいは充分にまかなえるだろう。  ——白田さんは鋭い人だったな——  あの頃、保村は大学生。白田氏は五十歳くらいだったろう。家庭教師として入り込み、それとなく見ていただけなのだが、白田氏はいかにもやり手の営業マンらしい人柄だった。  とりわけ印象に残ったのは、お金の使い方……。現金主義、そんな思想を心に持った人なのではあるまいか。  毎月の手当てが現金なのは当然だが、その他のプレゼントも、たとえば年末や夏のちょっとした贈り物、あるいは子どもが首尾よく目的の学校へ入ったときの御礼だのを言うのだが、白田氏の場合はかならず現金だった。靴下やハンカチや図書券などということは、ついぞなかった。そして白田氏は現金を贈ることの非礼さを巧みにわびる。だから受け取りやすい。  だが、あとになって保村は気づいた。  ——あれは、みんなあの人の計算だったんだ——  まったくの話、現金ほどありがたいものはない。靴下よりもハンカチよりも図書券よりもうれしい。だれにとってもそうだろう。保村が学生だったからではなく、それが白田氏のやり方らしい。御礼は現金で……。それを上手に渡すことができれば、それが最高だ。そして白田氏はそのあたりが実にスマートで、さりげない。謝りながらサラリと渡す。そんなやり方が厭味なく身についてしまえば、これは世渡りの有力な武器となるだろう。結婚のお祝いも現金だった。  ——今度もそうだったし——  人間の欲望がどのあたりにあるか、さりげない様子で鋭く見ている人だった。サラリーマンとして出世するためには大切なことだ。  ——俺はどうかな——  とりあえず万里子の欲望がどのあたりにあるか……。それがまるで見えない。  ——白田さんなら、どう見るかなあ——  女性を見るとなると、白田氏もそう長《た》けてはいないかもしれない。  たしかに、男と女の世界は異次元だ。普段の生活とは、べつな空気が流れ、価値観も異なる。少なくとも男にとってはそうだ。少しくらい騙《だま》されてもいいと思っている。ひとときの、よい夢を見させてくれるならば……。  ——だったら、今、なにも思いわずらうことはないんだよな——  万里子の手を握りしめ、指と指のあいだをなぞった。万里子は眼を開け、髪を掻《か》きあげ、 「眠っちゃった」  と笑う。表情があどけない。 「うん。よく眠っていた」 「もうすぐ?」 「ああ」  すでに車は山を抜け、町に入っていた。空港もそう遠くはあるまい。旅は終りに近づいている。  ——なにか忘れている——  残された時間のうちにやっておくことが……ある。一つか二つ。  ——でも、なんだろう——  うまい言葉が浮かばない。  飛行機に乗り込み、たあいのない会話を交わし、 「なんだか釈然としない」  保村がこう尋ねたときには、もう着陸が近づいていた。 「そう? そうでしょうね。私の心の中がすっかり見えれば、保村さんも納得するわ。でも、つまらないことよ、全部見えなくてもいいでしょ。見えないからいいの。私にはわかるの、全部見えるから」  と笑う。 「そりゃそうだ」 「毎日の生活の中でポンと玉が一つ弾けて、それがあっちゃこっちゃにぶつかって、思いがけないところで思いがけない玉がポンと転げ出すの。そういうこと、あるでしょ」  気分はわからないでもない。  だが、その一番最初に衝かれた玉はなんなのか。どうぶつかって、最後に�旅へ行く�という玉が転げ出したのか。 「ほんの一カ所だけで触れているような二人って、すてき。あなたは厭?」 「そうでもないけど」  今後も一カ所だけで触れあう方法はないのだろうか。  ——白田さんなら巧みにお金を渡すのではあるまいか——  そんなあざとい思案も浮かぶ。 「本当にありがとう。とてもすてきな旅だったわ」 「本当に?」 「ええ。すっかり散財させてしまって」 「もう会えないのか」 「どうかしら」  飛行機が動きを止めた。 「さようなら」 「さよなら」  羽田空港の構内バスを降りたところで別れた。万里子はタクシーで蒲田まで行って帰ると言う。保村が「送って行こう」と主張したが、 「ううん、人目があるでしょ」  小走りに走って、すぐにうしろ姿が人混みの中に消えてしまった。  ——これっきりか——  あっけない幕切れ。  しかし、中身の薄い旅ではなかった。どう終れば満足したのだろうか。保村はモノレールの座席に腰をおろして、ぼんやりと夜の輝きを眼に映した。  ——彼女の気晴らしに利用されただけなのかなあ——  それでいいような、それじゃあ困るような……納得できないものがある。旅の費用はすべて保村のまかないだった。当然のような気もするが、  ——少し変だな——  とも思う。  向かいの席で若いカップルが肩を寄せあって笑っている。二人にはこれからどんな夜が待っているのだろう。  ——このまま終りたくはない——  時折こっそりと万里子に会うことはできないものか。「あとを引かないでくださいな」という台詞を信じ過ぎてしまったらしい。  ——万里子の動機はなんだったのか——  無料《ただ》の気晴らし。保村に頼めば、すべておまかせで楽しい旅をさせてくれると、そんな打算があったからだろう。保村はわからないながらも、いったんはそう結論をくだした。  だが、それもちがった。  浜松町駅で定期券を取り出そうとしてボストンバッグをさぐると、見慣れない封筒がある。�ありがとうございました�と、いつ入れたのか短いメモと、旅の費用がさし込んであった。  少なくとも万里子は、無料の旅を楽しもうとしたわけではない。  ——よかった——  銭金の問題ではない。  保村の休暇の取り方は、若い人たちによい印象を与えたらしい。なんの理由も説明せず、 「ちょっと命の洗濯を」  それだけ言って休んだ。  そうでなければ休暇の意味がない。それを決行しただけでも意味がある。  ——万里子のほうだってわからないことがあるはずだ——  万里子は、なぜ保村が簡単に休暇をとる気になったか、なぜ旅の資金が潤沢《じゆんたく》にあったか、そう、それから六年前、保村がなぜ強引に彼女を誘ったか、その理由を知るまい。職場の事情、白田氏のこと、課長の忠告……。みんな保村の側に属することだ。玉が弾け、思いがけないところでべつな玉が動く。人と人との関係には、いつだってそんなところがある。  おそらく万里子の側にも、旅をしなくてはならない理由があったにちがいない。保村の知らない生活の場で、なにかしら引き金となるものがあって……。  万里子は泡立つ海を見つめながら言っていた。 「男と女みたい。知らないところから寄せて来てぶつかって……」  南の波には北の心がわからない。北の波には南の心がわからない。二人の思惑がぶつかって響灘の飛沫《しぶき》となって崩れた。女体はたしかに白い波のように激しくうねり、騒いでいた。 「保村君」  突然、課長に声をかけられ、保村の思案が仕事に戻る。 「はい?」 「例のタイ貿易の件、静観しておいたほうがいいね。こっちからは動き出さずに」 「そのつもりです」  サラリーマンはいつだって心の中に仕事をかかえている。仕事の思案が引き金となって私事も微妙に変る。万里子についても、  ——しばらくは静観。こっちからは動き出さずに——  きっとそれがいいのだろう。 [#改ページ]  家族ゲーム   第一話 動物あわせ  信彦が家族と一緒に天現寺に着いたのは、午後の四時すぎだった。日射しは明るいが、風はもう夕べの気配を帯びて冷たい。天現寺には妻の愛子の実家がある。 「相変らずコンピュータ相手の翻訳かね」  信彦が挨拶《あいさつ》をすませて炬燵《こたつ》に足を入れると義父が尋ねた。 「はい。いったん始めたら十年や二十年かかる仕事ですから」 「ご苦労さんだね」  信彦は大学の国文科に入り、学校の教師にでもなるつもりでいたが、勧められてコンピュータ会社に就職し、自動翻訳機の開発部にまわされた。もちろん一人でやる仕事ではない。  とりあえずは日本語文から英語文への翻訳。そのためには日本語の分析的な研究が必要である。そのあたりが信彦の主な役割だった。 「もともとちがう言葉ですから……」 「そりゃそうだ」 「たとえば�伊豆の踊り子��日劇の踊り子��美人の踊り子� この三つをコンピュータに翻訳させますと……」 「うん?」  義父はこの種の話題に興味を示す人だ。 「ダンサー・イン・イズ。ダンサー・オブ・ニチゲキ。ビューティフル・ダンサー。つまり日本語の�の�の扱いがこれだけちがってるんですね」 「なるほど」  玄関のあたりが騒がしくなり、義兄たちの家族が到着したらしい。  正月にはそれぞれの家に事情があって集まることができなかった。その埋めあわせに二月の土曜日を選んで天現寺の家に集合することになった。  天現寺の家には義父と義母がいる。長男が慎一郎、長女が愛子。二人とも結婚して両親とはべつに住んでいる。慎一郎の妻が芳美、愛子の夫が信彦。つまり信彦にとっては、慎一郎が義兄、芳美は年齢は下だが、義理の姉になる。子どもはどちらの夫婦にも二人ずついて、天現寺の義父母は四人の孫を持っていることになるわけだ。小学二年生から幼稚園まで、年齢が近いから一緒に遊ぶにはいい。家族関係というものは、当事者たちにとっては自明なことだが、他人に説明するとなると、一つ一つ図でもかくようにして言わなければわかりにくい。  子どもたちは、祖父母の家に来てまず庭へ。居間の炬燵には慎一郎も加わって、しばらくは男たちだけの話が続いた。 「すみません。動物の絵をかいてくれません? 信彦さん、お上手なんでしょ。あなたもよ」  子どもたちの世話をやいていた芳美が厚紙とクレヨンを持って入って来た。 「なにをするんだ」  と義兄が聞く。 「動物あわせ。どうせ男のかたはひまなんだから。子どもたちも喜ぶわ」 「子どもたちにかかせたら、いいだろ」 「駄目、駄目。やっぱりそれなりにいい絵じゃなきゃ、ゲームにならないもの。協力してくださいな。今日は子どもたちにサービスをしてあげる約束でしょ。ここに図案の本もありますから。ね、信彦さんもお願い」  文庫本ほどの厚紙を横長にして、そこに動物の絵をかき、色を塗り、そのうえで頭、胴、尻尾《しつぽ》の三部分に切る。それがお願いの中身である。 「二十種類くらい作らなきゃ話にならんだろ」 「そうね、なんにしようかしら。牛、馬、犬、猫、虎、ライオン、らくだ、象、鯨、しま馬、わに、蛇、燕《つばめ》、亀、金魚、鯛《たい》……」  芳美はあらかじめ考えておいたらしく、次々に名前をあげて紙に記した。 「三つに切ったとき、どの動物の、どの部分か、はっきりわからんようじゃ困るな」 「よろしくお願いします」  義父も笑いながら、 「まあ、やってやれよ。子どもたちが喜ぶだろうから」  と勧める。 「じゃあ、やりますか」  おかしな仕事を押しつけられ、慎一郎と信彦は話を続けながら手だけ動かした。  二人とも絵はうまい。図案の本を参考にしてかく。そして色を塗る。 「蛇なんか、むつかしいな」 「燕も結構やっかいですね」  ゲームのやり方はおおよそ見当がつく。おそらく頭と胴と尻尾をバラバラにしておいて、それを組み合わせるのだろう。カードを一枚見ただけで、それが、どの動物の、どの部分であるか、すぐにわからなければいけないらしい。頭はやさしい。尻尾のあたりも特徴がある。厄介なのは、まん中の部分。はっきりとした模様のある動物はいいけれど、ライオンの胴なんか茶色ばかりでわかりにくい。信彦は一工夫をして、たてがみの一部分が見えるようにした。 「うまいじゃない。ご苦労さまでした」  二十匹の動物がそろったあたりで芳美が顔を出し、夕食の用意も整った。 「わっ、すごい」 「お父さんが作ったの? 信彦叔父さんもうまいなあ」  子どもたちの喜ぶまいことか。バラバラに切られたのを三枚ずつ集めて、畳の上に動物園ができあがった。 「これで遊ぶの?」 「そう。動物あわせ」 「今すぐ?」 「ううん。御飯が終ってからね」 「みんな一緒に?」 「お祖父ちゃんやお祖母ちゃんにもお願いしなさい」 「ねえ、やってくれる?」 「ああ、いいとも」  食事のあとは、みんなそろって動物あわせをすることになった。  二十種類の動物の体を三つに分け、合計六十枚のカード。裏返しにしてカットして、みんなの前に分配する。そして最後に自分の前に何匹ちゃんとした姿の動物をそろえるか、その数を争うゲームである。  牛の頭と尻尾があれば、だれが胴体を持っているか、狙いをつける。 「信彦叔父さん、牛の胴体をください」  そう言われて持っていなければ、 「ありません」  と答えて、今度は信彦がだれかに請求をする権利を得る。  持っていれば、そのカードをさし出すのだが、このとき受け取ったほうは、かならず、 「ありがとうございます」  と言わなければいけない。これを忘れると今もらったカードを返し、しかも請求権もそのカードの元の持ち主のほうへ移ってしまう。  たあいのないゲームだが、子どもたちは求めているカードを得たうれしさのあまり、ついつい「ありがとうございます」を忘れてしまう。そうなると逆に取り返されてしまう。 「こりゃ、いいゲームだ」  義父も上機嫌だ。  大人の中にも、ついうっかり「ありがとうございます」を忘れてしまう者がいる。子どもたちは固唾《かたず》をのんで待ちかまえていて、 「ほら、言わなかった」  と指をさす。 「これ、なーに。亀の腹?」 「ひどいじゃない、これ。どこが燕なのよ」  女たちは夫の絵の腕前をからかう。  あちこちで笑いが起こる。子どもたちは夢中である。四回、五回と同じ遊びを続けたがる。こんな簡単なゲームでひときわにぎやかに遊べたのは、手作りのカードのせいだったかもしれない。 「芳美さんのアイデアかな、これは。さ、あとはおまえたちだけで遊びなさい」  義父が芳美をねぎらい、子どもたちに命じて動物あわせは終った。  子どもたちはお菓子を食べながら、双六《すごろく》のようなゲームをやっている。  大人たちは炬燵に集まって、蜜柑《みかん》の皮をむく。 「芳美さんのお家じゃ、よくやっていらしたんですか、動物あわせ」  と義母が茶碗を手で包みながら尋ねた。 「ええ。私、得意だったんです。ありがとうございます、ありがとうございます、みんなからもらって一人で全部集めちゃったりして」  この人は、いつも人あたりがやわらかくて明るい。如才《じよさい》なく、人づきあいがうまい。 「芳美は、ありがとうございますだけはうまいんだ」  と芳美の夫が半畳を入れる。 「だけはってところが気に入らないけど」  と睨《にら》む。 「あっただろ、結婚したばかりの頃」 「ええ……?」 「あのね、新婚の頃、月給袋を渡すと、芳美はいつも�ありがとうございます�って丁寧に言って受け取るんですよ」  慎一郎が一同に披露した。 「なにせ、大切なご主人様のお稼ぎですから」 「みんなそうなんじゃない」  と、これは義母である。 「いや、そうでもない。いちじ職場で話題になってね。仲間の一人がぼやくんだ。奥さんに月給袋を渡してもなんの愛想もない。�ありがとうくらい言え�って言ったら、奥さんが�なんで? これはあなた一人の稼ぎじゃないのよ。私もいろいろ協力して、それでこれをいただいたわけじゃない。主婦の労働も、りっぱに夫の稼ぎの一部として認められているのよ�って……。ひどいもんだってことになってね。それで注意して見てたら、芳美は絶対に�ありがとうございます�を忘れない」 「ゲームで慣れてたからだ」  と、今度は信彦が笑いながら半畳を入れた。 「日ごろからみなさんに感謝して生きているからです」  と芳美も笑う。 「いや、いいことだ。子どもの頃のゲームがそういう形で実を結べば……」 「信彦さんはなにをして遊んでましたの?」  義母に尋ねられ、 「いやあ、僕はごく月並な遊びばかりだったなあ」  と信彦は頭をかきながら答えた。  その夜、信彦は家族たちと一緒に義父の家に泊った。布団が変ったので、すぐには寝つかれない。少し神経質のところがある。  ——子どもの頃は、なにをして遊んでいたかなあ——  義母に聞かれたことを思い返した。  信彦は一人っ子だった。父は出張がちで、母と二人きりでひっそりと家にいることが多かった。本を読んだりテレビを見たり、プラモデルを組み立てたり……。仲間と一緒に外で遊ぶことはあったが、今夜のような一家|団欒《だんらん》はなかった。  ——ああ、そうか——  おもしろくてたまらない遊びが一つあった。それを思い出した。  あれも寒い頃だった。友だちの家に招かれて遊びに行った。親戚の多い家らしく同じ年恰好の子どもが大勢来ていた。すぐにはうちとけられなかったけれど、一緒に遊んでいるうちに違和感が少しずつなくなった。みんな遊び慣れている。信彦を仲間に引きこむ。 「�いつ、だれが、どこで�をやろう」  そんな遊びは知らなかったが、誘われるままに参加した。 「まず�いつ�だよ」  カードと鉛筆が配られ、見よう見まねで書いた。�時�を表わす言葉を……たとえば�一月元旦に�とか�大雨の日に�とか書けばよいらしい。 「今度は�だれが�ね」  たとえば�田中君が�とか�聖徳太子が�とか書けばいいのである。 �どこで�のときには�便所の中で�とか�海の底で�とか、思いのままに書く。  同じように�だれと��なにをした�を、みんなが勝手に書く。  書き終えたところで、五枚のカードを当てずっぽうに選び出す。 「大雨の日に、正雄ちゃんが、屋根の上で、校長先生と、ウンコをした」 「運動会の日に、王選手が、便所の中で、マリリン・モンローと、さか立ちをした」  だれかが吹き出す。そうなると、もうおかしくて、おかしくて我慢ができない。大笑いのあまり苦しくて、ゴロゴロ転げだし、それでもまだ笑っている子どもがいる。  もちろん信彦も笑った。あれほど笑ったことは、ほかにないかもしれない。  ——なにがそんなにおかしかったのか——  たしかに、おかしいことはおかしい。それを目的にした遊びである。笑って当然だ。  だが、信彦が大笑いをしたのは、あの日の気配が、一家団欒の雰囲気がうれしくてうれしくてたまらなかったせいかもしれない。自分が仲間に入っていることのうれしさだっただろう。  しばらくは�いつ、だれが、どこで�というゲームが、忘れられなかった。もう一度みんなでやってみたいと思った。当然のことながらこのゲームは自分一人でやってみても、おもしろくない。それでも時おり自分一人でカードを作り、いろいろな文句を書き連ねた。  ——もし今度チャンスがあったら、うまい文句を書くぞ——  人を笑わせるにふさわしい文句をあれこれと考えたこともあった。  そんな昔が……しばらく忘れていたことが忽然《こつぜん》と心に戻って来た。  ——あれをやってみるか——  もう少し子どもが大きくなってから……。今のところは動物あわせくらいが適当かもしれない。  ——芳美さんは�ありがとうございます�を言うのが得意だと言ってたけど——  幼い頃の体験は、当人も気づかない部分に影響を与え、思いのほか頭の中に長く残るものなのかもしれない。  ——不思議だな—— �いつ、だれが、どこで�は、日本語の分析にほかならない。信彦はコンピュータを相手に、ここ数年ずっとそれをやっている。これからも、また……。  ——どこかで繋《つなが》っているのかな——  信彦は訝《いぶか》りながらも、眠りがやって来るまで、幼い日の歓喜を心に呼び戻していた。 [#改ページ]   第二話 消えた言葉  日曜日の昼さがり。賢三がテレビの歌番組を見ていると、娘の智美が居間に入って来た。妻の久子は買物にでも出たようだ。  智美は自分の茶碗にお茶を入れ、いかにもついでといった仕草で父の茶碗にもお茶を注ぐ。 「お父さん、お話があるの」  高校二年生。顔立ちも声も最近は久子によく似て来た。 「なんだ」 「長電話はいかんって言うけど、電話って、そんなにお金のかかるものじゃないわ」 「そうかな」  子どもたちの長電話には、どこの親も困りはてている。賢三の職場でも、ときどき話題になる。智美にも何度か注意したことがあった。 「お父さんに言われたから、私、先月、自分でどのくらい電話をかけたか計算をしてみたの。ストップ・ウォッチを使って」  智美はしっかり者である。もう一人、弟の隆がいるが、こちらのほうはいたってずぼらだから、いちいち電話料の計算なんかするはずがない。思いつくこともあるまい。 「で、どうだった」 「一カ月で十七時間とちょっとね。そのうち私のほうからかけたのは六時間四十二分よ」 「そんなものかな」  十七時間というのは一日平均にして三十分くらい。毎日、長電話をしているわけではあるまいから、二日に一度一時間くらいのものだろうか。 「そうよ。相手は都内に住んでいる人ばっかりだから三分間で十円。私のかけたぶんは千三百四十円にしかならないわ」  意外に安い。もう少しかけていると思っていた。 「それだって、お父さんが払ってるんだ」 「でも、一カ月で千円ちょっとのことに、そんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないかしらあー」  と、智美は言葉じりを伸ばして、父の表情をうかがう。 「そのあいだにどんな大事な電話がかかって来るかわからん」 「でも、うちの電話、割りこみ式になってるじゃない。話している途中にかかって来れば、すぐに切りかえるわ」  予想通りの反論が返って来た。  賢三はタバコをとって、ゆっくりと火をつけた。煙を喫いこんではき出す。  タバコなんてものは、どう考えてみても健康にいいことはない。そのうえ、はた迷惑。タバコのみのマナーはおしなべてよろしくない。百害あって一益なし、と、嫌煙家の主張もわからないではないけれど、少しは役に立つこともある。  たとえば今……。どう答えていいか困ってしまったとき。黙って考えこんだりすると、相手は、  ——あ、敵さん、考えてるぞ。多少はショックを与えたんだな——  と、こっちの足もとを見る。わずかなことだが、弱味を見せることになる。商談などではよく体験することだ。  そこでおもむろにタバコを喫えば、なんとか恰好がつく。けっして答に窮しているわけではなく、今はタバコが喫いたいと思っただけなんだ、と、そんな気配が流れる。賢三は「それがタバコを喫う効用だ」と、いつも理屈をつけている。「長電話はそれほど高いものじゃない」という智美の理屈も、もしかしたら遺伝のせいなのかもしれない。逆の立場なら賢三自身が言いそうな台詞だ。 「銭の問題じゃない」 「じゃあ、なんの問題?」 「けじめの問題だな。いいか。十五分まで電話を許すとする。そこで、十六分ならなぜわるいのかと聞かれても、理由はない。十五分が許せるなら、十六分も許せる」 「そうでしょ」 「ちがう、ちがう。早い話が、入学試験だってそうだろう。八十点までが合格のとき、七十九点はどうなんだ。八十点の人と実力は変りゃしないよ。だけど、それを言ってみたって意味がない。どっかで線を引かなくちゃいかん。長電話も同じことだ。いくらまでが許せて、いくらからが無駄だとは言えない。でもな、長くなれば無駄なことはまちがいない。お父さんが線を引き、おまえたちはそれに従うよりほかにない。それがわが家のルールだ」 「変なの。なんだかごま化されたみたい。せっかく苦労して計算したのに。とにかく、そうたくさんお金をかけているわけじゃないんだから、あんまりきびしいこと言わないでえー」  智美はまた言葉じりを伸ばした。 「手紙のほうがいい。言葉が消えない」 「消えたほうがいいこともあるわ」  そこへちょうど電話がかかって来た。  智美が出る。 「もし、もし、ああ、ノリちゃん」  智美の友だちかららしい。智美は父親に背を向け、声を小さくする。  賢三は目の端でそれを見ながら、  ——なぜ長電話はいかんのかな——  と、あらためて考えてみた。  たしかにそれほどお金のかかることではない。月に千円や二千円の出費でいちいち苛立《いらだ》つのは馬鹿らしい。子育ては、どの道お金のかかるものだ。つきつめて行けば、親になったのがそもそも出費のもとという結論になりかねない。  長電話を見ていて腹が立つのは、  ——電話が無礼な習慣だから——  そんな気がする。そのことと関係があるにちがいない。  電話は相手の事情に関係なく飛びこんでくる。そして優先権を主張する。  一家団欒の最中にかかって来れば、ちょうどまるいケーキの一部分を切られるように団欒の一角がそがれてしまう。あらかじめアポイントメントをとって、ようやく面会したような相手でも、そこへ電話がかかって来れば、それが先になる。割りこんだほうは、割りこんだ事実さえ知らずにいることが多い。  声だけで姿を見せないところも胡散《うさん》くさい。いたずら電話が成り立つ理由もここにある。まちがい電話をかけておいて、なんの陳謝もせずに切ってしまうのも、もし顔を見せていたなら、けっしてありえないことだろう。  そのうえ、電話はとても軽い習慣だ。軽さは便利にも通じるけれど、軽薄さにもつながる。  大切な用件は、手紙を書くか、顔をあわせて伝えるべきものだろう。ところが、そんな分野にまでどんどん電話が入りこみ、のさばってしまう。  軽い話にふさわしいメディアだから、会話の中身もあらかた軽いものになってしまう。  ——そんな話をするより、もっと大事なことがあるだろうに——  長電話を憎むのは、子どもたちが電話の持つ軽さとすっかりなれあってしまい、嬉々として首までつかっている、その姿をまのあたりに見せられ、それでいまいましく感ずるのかもしれない。  ——俺たちが育った頃は、電話は貴重品だった——  その思いも残っている。  それゆえにけっして軽くはなかった。  商売でもやっている家でない限り、電話のある家はめずらしかった。町内に一、二軒だったろう。  賢三の育った家にはそれがあった。  時折、呼び出し電話がかかって来る。 「おそれいりますが、おむかいの池田さん、お願いしたいんです……」  そんなときに池田さんの家まで呼びに行くのは、たいてい子どもの役割だった。 「どうもすみません」  池田さんの家のご主人か奥さんが、何度も何度もお辞儀をしながら入って来る。重要な用件に限られていた。そんな様子を見ていれば、電話を遊び道具にすることなど、てんから思いつかない。  ——池田さんの家には、かわいい女の子がいたな——  連想が、とんと飛躍する。  雪子という名前だった。名前の通り色が白い。顔だちは思い出せないが、色の白さと目の大きさだけは、なんとなく覚えている。  ——初恋の人……かな——  苦笑が浮かぶ。  中学生の頃に手紙を渡したことがある。ラブレターのようなもの……。なにを書いたか、それも思い出せない。  さほどの内容ではあるまい。ただの身辺雑記……。だが、それを書き、それを渡した心根は、まちがいなく恋に属するものだった。  ——手紙はいいな——  電話に比べれば、これは重い。電話の短所は、そのまま手紙の長所となる。相手をほとんど邪魔しない。よく考えたうえで書く。証拠も残る。受け取った側のありがた味もちがうだろう。  玄関のドアが開き、妻の久子が帰って来た。  智美の電話はいつの間にか終っていて、姿が見えない。 「なに笑ってるの」 「いや……。智美に言われたよ。長電話をしても、そんなにお金がかかるもんじゃないって」 「あの子、このあいだから自分が何分電話をかけるか、計っていたのよ」 「一カ月で千四百円くらいだってサ。自分でかけたのは」 「お小遣いから引こうかしら」 「余計にいい気になってかけるんじゃないのか」  子どもにお金を払ってもらえばいいってものでもあるまい。 「このごろの子は、みんなそうよ。うちだけじゃないわ」  久子は自分でも長電話をするから、このしつけに関しては少し甘いところがある。 「もっと手紙を書けばいいんだ」 「そうね。あなた、筆まめのほうですものね」  慣れてしまえば、手紙もそれほど面倒なものではない。 「電話万能の時代であればこそ、かえって手紙のほうが相手に与えるインパクトが強いんじゃないのか。会社の仕事でも、丁寧な手紙をもらったりすると、ないがしろにできないなって思うよ」 「ラブレターはいいもんよね。熟読玩味しちゃって……。相手の性格やおつむのぐあいもわかるし」 「それが困るときもある」 「あなた、うまかったわよ。それで欺されちゃったのかなあー」  久子も言葉じりを伸ばした。 「智美も隆も、手紙を書くことを身につけておいたほうがいいよ、これからはかえって」 「学校で教えてくれればいいのにね。漢文や源氏物語よりよっぽど役に立つんじゃないかしら」  なにもかも学校教育に押しつけようとするのは、このごろの女房族のわるいくせだが、それを言うと、またへんな議論になってしまうだろう。賢三はテレビに視線を戻した。 「いやあー、まいったよ」  翌日、賢三は会社の帰りに同僚の布田と酒場ののれんをくぐった。布田とは親しい。ざっくばらんの男である。 「どうした」  と賢三が尋ねれば、 「ガール・フレンドちゃんに手紙を送ってね」  と頭をかく。  布田に親しい女性がいることは、知っていた。多分あの人だろうと見当がつく。 「うん?」 「病気になっちゃって……。いつもは電話でしか連絡をしなかったんだけど、それじゃ情が薄いような気がして、見舞状を書いたんだ」 「なるほど」 「そうしたら、むこうに届かなくて、送り返されて来た。それを女房が読んじまって……」 「ただの見舞状じゃなかったのか」 「うーん。万一のことをおもんぱかって、そう過激なことは書かなかったんだけどなあ。ただ�好きなものでも買って食べてくれ�って少しお金を入れておいたもんだから……。�これ、なによ�ってことになる。そのうえで見舞状を読めば、匂って来るものがあるさ」 「まずかったな」 「まずい、まずい。手紙はよくない。やっぱり電話だけにしておけばよかった」 「手紙はわるいもんじゃないけどな。十時間たつと消えるインキを発明するかなー」  賢三も言葉じりを伸ばしてつぶやいてみた。  ——久子は俺の手紙を今でも持っているのかな——  布田と別れて帰る道すがら賢三はとりとめもなくそんなことを思った。  結婚十年目頃まではたしか残してあった。 「後日の証拠のためにとっておくわ」  そう言って手紙の束をかかげていた。  あれから二度引越しをした。久子は捨てたかもしれない。しつこく残してあるかもしれない。 「今晩なんにします?」 「なんでもいいよ」  久子の顔を見るともなしに見つめた。  昔は、この顔を脳裏に浮かべながら熱い言葉を綴った。つぎからつぎへとよい言葉が浮かんだ。もうあの頃の感興《かんきよう》を胸に呼び戻すことはできない。 「どうしたの」 「いや、べつに」  賢三も何通かの手紙を手もとに残してある。久子からのものではない。ほかの女たち……。すばらしい手紙がいくつかあった。  ——どこに置いたろう——  多分、あの引出しの奥。捜し出せば、消えた言葉が戻って来るかもしれない。 [#改ページ]   第三話 ここだけの話 「ここだけの話だけれど……」  姉の初子の声が廊下を通りぬけ、キッチンまではっきりと聞こえて来る。  ——ああ、またやっている——  良子は、あげだし豆腐の器に汁を注ぎながら口をとがらせた。  六角形の深い器。今日、初めて使う。あげだし豆腐のできぐあいも、まずまずだろう。姿よく仕上がったときは、たいてい味もよいものである。  かますの塩焼きは、すでにテーブルのほうへ運んである。お盆の上に六角の器を三つ載せ、廊下を急いだ。  初子の話なんか聞きたくもないが、やっぱり気がかりだった。 「こんなものよ。ありあわせで」  短い廊下を挟んでリビングルームがある。 「いいのよ、いいのよ。良ちゃんも一緒に飲もう」 「ええ」  良子はすわってビールのグラスをとった。夫の直樹が、 「子どもたちは、まだか」  と尋ねながらビールを注ぐ。 「今日は子ども会なの」 「遅いのかしら」 「九時頃じゃないの」 「会ってから帰るわ。伯母ちゃんの顔、忘れられちゃうと困るから」  姉から電話があったのは二時過ぎだった。 「銀座のデパートまで出て来たから、帰りに寄るわ。うちは出張なの」と言う。姉の家は小田原にある。こんな機会でもなければ、そうそう会うこともできない。良子は「いいわよ」と答えた。  土曜日である。姉が到着するより先に直樹が帰って来た。 「あら、早いのね」 「ああ、たまにはな」 「初子姉さんが遊びに来るって。よかったわ。子どもたちは子ども会だし……」 「寿司でもとって、くつろいだらいいじゃないか」  自分の姉だから、そう張り切ってご馳走を作ったりはしない。上寿司を三つとり、あとはかますとあげだし豆腐、姉が持って来た野沢菜をそえた。頃あいを見て吸物を出そう。 「もう、おたくはおしまい?」  と初子が聞く。七割がたは直樹に尋ね、残りの三割が良子のほうへの質問である。 「なにが?」  見当はついたが、あえて聞き返した。 「お子さん。多いほうがいいわよ」 「二人でたくさん。家計が持たないわよ」 「おたくなんかいいじゃない。ご主人が協力的だから」  姉のところも子どもは二人である。 「兄弟が多いのは、わるくないけどな」 「そうよ。だから章にもそう言ったんだけどねえー。伸子さんがいやがって」  と初子は唇を曲げた。  章というのは、初子の夫の弟である。伸子はその妻である。初子はおせっかいのところがあるから、義弟のところの家族計画にまで口を出すにちがいない。  ——あ、そうか——  さっき聞こえた言葉の先がわかった。初子は「ここだけの話だけれど……」と言ったあと、声をひそめて直樹に「章のとこ、子どもを堕ろしたのよ」と告げたにちがいない。そうにきまっている。姉の表情まで浮かんで来る。  ついこのあいだ、良子も電話口で初子から聞かされたばかりだった。 「ここだけの話だけど……」  あまり聞きよい話ではない。事情はどうあれ、一つの生命を抹殺した話である。初子は……というより初子の夫は、なにはともあれ自分の弟の家のことなのだから、多少は秘密を知る権利もあろうけれど、それを初子が聞いてあっちこっち見さかいもなくばら撒《ま》かれたんじゃ、たまったものじゃない。  まったくの話、「ここだけの話だけれど……」は姉の口ぐせだった。これまでに何度聞かされたかわからない。良子は聞いただけで心が曇ってしまう。  姉の場合は「ここだけの話」が、ここだけで終ることはけっしてない。良子もいちいち立ちあって確かめたわけではないけれど、想像はつく。根はそうわるい人ではないのだが、おしゃべりのくせだけは、なおらない。おそらく当人もどうにもならないのだろう。だれかの秘密を知ってしまうと、どうしても話さずにはいられない。  話術はうまい。多少の尾ひれをつけ、実におもしろおかしく語る。だから初子がいると、座が明るくなる。笑いが絶えない。今しがたも夫の笑い声が何度もキッチンにまで流れて来た。  ——私は、ああはできないのよね——  一方で反発しながらも、良子はコンプレックスを感じてしまう。 「伸子はスタイル自慢だから……体の線が崩れるんですって、子どもを生むと」 「うん」 「そういう話、あんまりしないほうがいいんじゃない」  良子がやんわりとたしなめた。 「そうね」 「このかます、うまいじゃないか」  直樹が話題を変えた。 「あげだし豆腐も最高よ。良ちゃん上手だもんねえ。私はまるで駄目。同じ姉妹なのに。両親もよく言うのよね。同じ家で、同じように育てたのに……」  たしかにそれが良子たちの両親の口ぐせだった。姉は外向的だが、妹はむしろ内向的である。姉は陽気だが、妹のほうは無口で、妙に頑固なところがある。器量も姉のほうが少しいい。姉は人あたりがいいから周囲の受けもわるくない。両親もおそらく初子のほうが扱いやすく、かわいいのではあるまいか。  ——お姉ちゃんはいい加減なのよ——  良子としてはそう言いたいが、人間の性格なんて、長短両方の側面を持っているものだ。いい加減だからこそ融通もきく。他人を許せる。良子は誠実ではあるけれど、そのぶんかたくなで、こだわりすぎるところがある。  両親が「同じように育てたのに……」と言うのは、一方の性格のわるい側面だけをことさらに感じたときである。「あっちはそうじゃないのに」と、そんな不満がこめられている。次の日になれば、昨日ほめたほうの欠点を発見し、また「同じように育てたのに……」と嘆くのである。 「しかし、姉妹ってのは案外ちがうものだね」  直樹が新しいビールの栓《せん》をぬきながら言う。  初子の顔はほてっている。良子は少々のビールくらいでは顔に出ない。 「そうなのよ」  初子は大げさな相槌《あいづち》を打つ。 「会社にちょっと年は取っているんだけど、きれいな人がいてさ」 「ええ……」 「�今度、妹が来ることになりましたから�って言うんで、みんなで期待してたんだ」 「男の人って、すぐそうなんだから。まじめに仕事やってんですかあ」 「だって、そうでしょう。お姉さんは美人だけど、年を取っている。この人の妹さんならどんなにいいかなって、遺伝の法則を信ずる限り、そう思うよ」 「で、どうでした」 「それが……ちがうんだよなあ」 「ひどいの」 「ひどくはないけど、お姉さんとはちがう」 「ぜんぜん似てないんですか」 「いや、そうでもない。似ていることは似ているんだが、肝腎なところがちがう」 「あるんですよねえー、そういうこと。ほら、あなたも知っているでしょう」  と初子が良子のほうを向く。 「なーに?」 「多賀家さんのご姉妹」 「ええ」 「世田谷にいたころ、うちの近所にとてもすてきなご姉妹が住んでいらしたの。以前は子爵か伯爵だったらしいのよ。どっちが偉いのかしら」 「たしか公、侯、伯、子、男て言うんじゃないかな」 「あら、どういうこと」 「一番偉いのが、ハムと書く公爵、それからそうろうみたいな侯爵。以下伯爵、子爵、男爵の順だよ、たしか」 「直樹さんは、もの知りだから」 「そんなこともないけど」 「とにかく多賀家さんとこのお嬢さん二人は、抜群にきれいで、上品で、あこがれの的だったの」 「両方ともきれいなわけ?」 「そう。いずれあやめかかきつばた。ただ、お姉さんのほうは、心のほうもすばらしいのね。クリスチャンで、結局修道院に入ったわ」 「なるほど」 「でも、妹さんのほうは、意地わるで、お高くとまっていて、どっかひねくれていたわね」 「ふーん」  ビールがからになっていた。 「もっと持って来ます?」 「どう、お義姉《ねえ》さんは?」 「もう、いらないわ」 「じゃあ、お吸物、持って来る」 「良ちゃん、お吸物まで作ったの。わるいわね」 「ううん。お汁に卵をといて落とすだけよ」 「本当。人から作ってもらうとおいしいのよね」 「ええ」  良子は空になったビアー・グラスを三つ、お盆に載せて立ちあがった。 「で、今の話だけれど……」  と、初子が夫のほうに体を向けて話を続ける。  初子は、いったん話し始めたことは、たいてい最後まで話す。さして重要な話でなくても、一応は結論まで持って行く。やはり、自分の話術に自信があるからだろう。他人が聞きたがっているにちがいないと、そのうぬ惚れがなければ、どうでもいいような話を長く続けることはできない。 「ああ、美人姉妹の話ね」  良子は夫の声を背後で聞き、次の瞬間、  ——あっ——  と思った。  むしろ笑いが頬に浮かぶ。 「ここだけの話だけれど、その妹さん、盗みぐせがあったの」  後半は小さな声に変った。  だが、廊下ならば聞こえて来る。  ——また、やっているんだから——  言われてみれば、良子もそんな噂《うわさ》を聞いたような覚えがある。あれも姉に聞かされたことじゃないのかしら。「ここだけの話だけれど」と、そんな前置きのあとで……。  ——しょうがないわね——  本当に何度、姉から「ここだけの話」を聞かされたか……若いときからいちいち思い出してみたら、いくつあるかわかりゃしない。だいたい苦い思いがつきまとっている。良子に実害が及んだこともある。  ——どういう気なのかしら——  吸物の温まるのを待ちながら良子は考えた。甲高《かんだか》い笑い声が聞こえた。 「さようなら。小田原のほうにも遊びに来てね」  初子は子どもたちの顔を見てから、すぐに帰り仕度にかかった。 「僕が行ってあげる」  長男が立候補して駅まで送って行った。しかし、次男のほうは、すぐに自分の部屋へこもってしまう。  この家でも長男のほうが愛想がいい。次男は気むつかしい。幼いときからそうだった。 「あいつ、どうもいかんな」  子ども部屋のほうを顎《あご》で指して夫が言う。 「そうねえ。わるい子じゃないんだけど」 「わるい子なんて世の中にいやせん。もう少し社交的にならんといかん。サラリーマンになれんぞ」 「まだまだ先のことでしょ」 「いや、性格ってものは案外変らんからなあ。おまえのとこもそうだったんだろ。お義姉さんとずいぶんちがうもんな」 「お姉さんみたいなほうが好きなんじゃない、つきあいやすくて」 「ちょっと軽いな。おしゃべりだし……」  夫も姉のくせに気づいているらしい。  玄関の戸が開き、長男が帰って来た。 「ただいま」 「ご苦労さん」 「お母さんて、子どもの頃、お化けがこわくて、夜中、トイレに行けなかったんだって」  一大発見でもしたように聞く。おそらく姉に「ここだけの話」を聞かされたのだろう。 「そうよ」 「ふーん」 「僕は平気だよ」  足音を立てて廊下を走って行った。トイレットの中から陽気な歌が聞こえて来る。 「同じように育ててるのになあ」  夫がしみじみと言う。 「そうかしら」 「ちがうか」 「ううん。同じような環境で、同じように育てているわよ、たしかに。親たちは、よくそういうことを言うわ。でもね……」  小首を傾げてから良子は続けた。 「生まれたとき、上にだれかがいるのと、いないのと……子どもにとっちゃ、ぜんぜんちがう環境だと思うわ。ちっとも同じ環境じゃないわ。それからずーっと、育つときも、そのあとも、ほとんど一生その状態が続くんですもの」 「なるほど」 「私、お姉さんがいなきゃ、自分の性格も変ってたなって何度も思ったわ。お姉さんがいなきゃいいって思ったこと、何度かあったわね、ここだけの話だけど」 [#改ページ]   第四話 猫を飼う  夜の一時を過ぎている。敏久はポケットの鍵をさぐり出し、玄関のドアをそっと開けた。 「ただいま」  だれか起きてる者がいれば、やっと聞こえるほどの声で告げ、ドアの二重ロックをかけた。階段の上はひっそりとしている。子どもたちはもう眠っただろう。真理子と明。小学校五年生と三年生だ。  寝室の襖《ふすま》のすきまから暗い光が縦線を作って漏れている。この光が明るく輝いていれば、妻の和子が起きている証拠である。まっ暗なら、眠っている。薄暗い光の場合は、どちらとも言えない。  襖を細く開けて、中へ入った。  背広を脱ぎ、ネクタイを取り、ワイシャツを放り投げた。少し酔っている。この春、名古屋へ転勤する同僚がいて、送別会のあとカラオケ酒場へ行っておおいに歌った。酔うと時間のたつのが急に速くなる。気がつくと、終電の時刻だ。 「帰るよ。なんせ家が田舎だから」  なんとか間にあい、二つめの駅で前の席があいた。たっぷりと一時間眠った。おかげで酔いが大分さめた。さらに駅から八分の道のり。わが家は敷地四十二坪の建売り住宅である。 「遅かったのね」  眠っていると思った和子がくぐもった声で言う。 「ああ、加東君の送別会のあと、二次会をやったからな」 「加東さん、ご家族はどうするの?」 「単身で行くそうだ。名古屋はそう遠くない。かえって浜松より近いくらいだ」  つい一年前まで敏久自身、単身赴任で浜松にいた。転勤を命じられたときは、家を買ったばかりだったし、子どもたちも転校をいやがった。三年浜松で独り暮らしをして戻った。 「加東さんとこ、お子さん、まだ小さいんでしょ」 「しかし、お袋さんの体がよくないらしい」 「ああ、それじゃあね」  子どもが就学前なら、家族そろって任地へ移ることもできる。だが、親がいて、その親が病弱となると、それもむつかしい。 「加東さんご自身のお母さま?」 「そうだろ」 「じゃあ、大変ね」  妻と母と幼い子ども。よくある形だが、トラブルもけっして少なくない。 「まあな」  答えながらパジャマに着がえた。 「上、寝てたでしょ」  和子は布団のへりから顔を出し、顎で天井を指す。子ども部屋の様子を尋ねている。 「電気は消えてた。どうして?」 「お父さんに相談してみなさいって言っておいたんだけど……」 「なんだい」  朝は仕度にいそがしくて、ほとんど和子と話をするゆとりがない。休日は寝ている。ゴルフへ行く。夫婦の会話は、眠りにつく前が多い。 「真理子が猫を拾って来たの。家の玄関先に捨ててあったんですって」 「ふーん」 「自分で世話するから、どうしても飼いたいって。明も一緒になって言うのよ」  なんだ、そんなことか。和子が深刻な面持《おももち》で言うから、もっと大事件かと思った。 「いいじゃないか。飼わせてやれば」 「でも、あなた、猫、きらいでしょ」 「いや、とくにきらいでもないけど……」  つぶやきながら和子の顔を見た。 「そうなの? 結婚前に言ってたじゃない。猫はずるいところがあるから厭だって」 「そんなこと、言ったかもしれんな。でも、いいよ」  その会話は覚えていない。十数年も前のことだ。言ったとしても、言いかたが少しちがっていたのではあるまいか。  あのころ、「犬と猫と、どちらが好きか」と聞かれたら、敏久は「犬」と答えただろう。だが、正確に言えばペットそのものにあまり関心がなかった。飼ったことがない。ああいうものは、子どものころの習慣とおおいに関係がある。子どものときに一緒に暮らしていれば、ずっとペットをかわいがる。ちがうだろうか。  だから、敏久は、犬も猫もどちらも好きでなかった。あえて言えば、いかにも実直そうな犬が好きだと、その程度の気分だったにちがいない。 「結構かわいい顔してんのよね」  和子も仔猫のかわいさにほだされてしまったらしい。 「それより、おまえが世話しなくちゃ駄目になるぞ。それはいいのかな」 「だって、二人がやるでしょ。そう言ってるわ」 「いつか新聞で読んだことがある。ペットを飼いたがる順序は一番子ども、二番父親、三番母親。実際に世話をする順番は一番母親、二番子ども、三番父親。結局は家にいるものが面倒をみなくちゃいけないんだ」 「その可能性はあるわね。でも、できるだけさせるわ、子どもたちに」 「ペットの世話をさせるのは、わるくないな。とくに明なんか、みんなに甘えてるから。自分より弱い者がいれば、厭でも面倒をみてやらなくちゃいかん。餌をやるのを忘れていれば、ペットは死ぬんだから」 「私もそれを思ったの。だから、いいかなと思って」 「一匹だけ捨ててあったのか」 「そうみたい。ひどいわね。ひとの家の玄関先よ。なに考えてるのかしら」 「いろんな人がいるさ」  その言葉が合図みたいに和子があかりを消した。間もなく和子の寝息が聞こえた。  ——子どもたちが喜ぶだろうな——  狭いながらも一戸建ての家なのだから、猫くらい置いてやってもいい。明日の朝が楽しみだ。  電車の中でぐっすり眠ったせいか、敏久のほうはなかなか眠れない。  ——俺は猫がきらいかなあ——  さっき和子に言われて、一瞬驚いた。  ゆっくり考えてみると、たしかに昔はあまり好きではなかった。今はそれほどでもない。むしろ好きかもしれない。きっと好きだろう。自分でもそんな心の変化に気づいていなかった。  それを妻に突然指摘されて、それで驚いた……というわけではないだろう。変化の背後に、和子には知られたくないことがある。うしろめたさがある。話題がいきなりその付近に飛びこんで来たので狼狽《ろうばい》したらしい。  浜松にいたとき……親しい女がいた。めずらしくもない。単身赴任では、よくあるケースだろう。女は猫が好きだった。女の名は三七子《みなこ》。 「父が三十七歳のときに生まれたの」 「ちょうど俺の年だよ」 「私より十歳上ね」 「ああ、そう。若く見える」 「ありがと。おたくは、お子さん、大きいんでしょ」 「二人とも小学生だ」 「あ、そう。私、遅い子どもだったから、父に早く死なれちゃって……」  たったそれだけの話からでも、見えて来るものがあった。多分、末っ子。だから甘えん坊。しかし、生活の苦労は少し体験しているらしい。たった一人でマンション暮らしをしているのも、父親がいないせいではあるまいか。  三七子は駅に近いバーに勤めていた。  その店に敏久が客として行き、何度か通ううちに親しくなった。むしろ三七子のほうが積極的だった。女は男のように強く誘いかけたりはしないけれど、どことなくそんな気配があった。  ——この女に好かれているらしい——  くすぐったいような気分だった。  だが、油断はできない。なにか企みがあるかもしれない。そう思うのが常識だろう。  だが、三七子はそんな感じの女ではない。少しずつそれがわかった、それに……敏久を誘惑してみても、たいして得にもなるまい。  あとになって、 「どうして俺を誘ったんだ」  と尋ねてみた。 「嘘よ。あなたが誘ったんじゃない、ホテルへ」  それはそうなのだが、三七子のほうにそう仕向けるようなところがあった。それを言うと、三七子は少し笑ってからつけ加えた。 「お客さんがほしかったし、わりと好きなタイプだったのは本当ね」  そのへんが三七子の本心だったろう。けっしてわるい意味で言うのではないが、男と寝ることに強いこだわりを持つ人ではなかった。親しくなれば抱きあう。いちいち意味づけをする必要はない、と三七子はそう考えていたのではあるまいか。  最初のうちはホテルで会っていたが、そのうちに女のマンションへ行くようになった。古いマンションだが、三七子はきれい好きだった。窓から疾走する新幹線が見えた。  三七子は猫を飼っていた。黒と白の猫。黒が体の四割くらいを占めている。右耳から右眼にかけて、ななめに黒いぶちがある。海賊が黒いパッチをつけているみたいに。名前はニャア。 「雄?」 「ううん、雌」 「いないときは、独りで留守番をしてるわけか」 「そう。ボーイ・フレンドが誘いに来るから困るのよ。深窓の令嬢なのに」  一度だけ、猫の盛りの時期に三七子の部屋に泊った。夜通し雄猫の鳴き声を聞かされ閉口した。 「へんな奴に赤ちゃんなんか生ませられたら困るでしょ」 「まったくだ」  ベッドの中で二人で声をあげて笑った。三七子の体も猫のようにしなやかだ。どんな姿勢にも耐えて深く交わる。 「猫、きらい?」  尋ねられて敏久は即座に答えた。 「いや、好きだよ」  そう答えなければ、とてもこの部屋に入ることは許されないだろう。三七子とつきあうこともむつかしい。三七子は本当にニャアをかわいがっていた。  あのときから敏久は否応なしに猫好きになったらしい。ニャアも不思議とよく敏久になついた。そうなってみれば、かわいいものである。 「よかった。私、昔っから猫好きなの。私が死んだら、そのあとニャアを飼ってね」 「馬鹿なこと言うんじゃないよ。男より好きなんじゃないのか」 「そうよ。男とちょうど逆ね。薄情っぽい顔をしているけど、猫は裏切らないわ。男はさ、親切っぽい顔をしているけど、裏切るじゃない」 「言えるなあ」  猫の特質まではわからない。だが、三七子が男について言った部分はよく当たっている。三七子は何度か同じ苦さを味わったにちがいない。敏久もその上塗りをしてしまった。  敏久が東京に帰ることになった。それより少し前に三七子は独立して小さなバーを開いた。パトロンがいたのかどうか……。 「さよなら」 「これっきりなの?」 「東京に来たら連絡してくれよ」 「そうね、でもめったに行けないわ。お店も持ったし……。あのね東京へ帰ったら……」 「東京へ帰ったら……なんだ?」 「奥様とお子さんを大切にして、浮気なんかしちゃ駄目よ」 「わかった、そのつもりだ」 「でも、たまには思い出して、私のこと」 「ああ、忘れないさ」  別れはさわやかなものだった。人生にはこんな出来事もなくてはつまらない。最高のエピソード……。  だが、そう思うのは男のほうだけかもしれない。三七子にとっては、やはり「男はさ、親切っぽい顔をしているけれど、裏切るじゃない」……。その通りの幕切れだったのではあるまいか。  あれから一年。�去る者、日々にうとし�という言葉は本当だ。三七子からはなんの連絡もない。敏久もなにも伝えない。ほとんど忘れている……。  いや、忘れているというのは正確ではあるまい。思い出そうとすれば、なにもかも……そう、三七子のくせから体の特徴まで、細かく思い出せるのだが、昨今は思い出すこと自体を忘れてしまっている。  敏久は布団の中で眼を閉じて三七子の記憶を呼び起こした。  ——今夜は三七子の夢を見よう——  三七子はきっと猫を抱えているだろう。  翌朝、敏久は子どもたちの声で眼をさました。 「お父さん、いいって言ったの?」  明の声が弾んでいる。 「もう一回、しっかりお願いしたほうがいいわよ」 「うん」  足音が響き、部屋の襖が開いた。明に続いて真理子も父の枕もとにすわる。 「お父さん、お願い。猫、飼っていいでしょ」 「お父さん、猫、飼っていいでしょ」  まるで輪唱みたいに二つの声が重なる。 「飼っていいぞ。しかし、お母さんに面倒かけちゃ駄目だ。できるだけ自分たちでやれ」 「うん、わかってる」 「かわいいでしょ」  敏久は畳の上に目を移し、猫を見た。  ——まさか——  黒と白のぶち。黒が四割くらい。右耳から右眼にかけて黒いパッチ。ほとんどニャアのミニチュアと言ってよい。そっくりそのままだ。ニャアの子ではあるまいか。 「玄関の前に捨ててあったのか」 「そうだよ」  いくらなんでも浜松から……。  仔猫はじっと敏久を見つめている。 [#改ページ]   第五話 遊園地  その遊園地は横浜にあった。  世田谷の家から行くとなると、電車で四、五十分。さらに駅前の繁華街を通り抜け、坂を登り、二十分くらいは歩かなければいけない。子どもの足では……あちこちのぞきながら行くものだから、もっとかかった。だが、陸男はひところ子どもたちを連れてよくそこへ行った。 「どこへ行きたい?」  と尋ねれば、三人の子どもたちは口をそろえて、 「横浜の遊園地」  と言う。朋恵を頭に、順一、精二と続く。いろいろな時期があったけれど、眼に浮かぶのは、みんな幼い面ざしの小学生である。  遊園地という呼びかたは、あまり正確ではない。もっとずっと大きい。りっぱな動物園がある。公園がある。そしてブランコやジャングル・ジムを置いた遊び場がある。しかも、どこへ行っても無料。ジェット・コースターやコーヒー・カップなど、お金のかかる乗り物は用意してなかった。  初めは妻の恭子も一緒で……つまり家族全員で遊びに行ったのだろうが、その記憶はあまりはっきりと残っていない。顔ぶれは、ほとんど陸男と三人の子どもたち。たとえば、日曜日の朝、布団からなかなか起きてこない恭子に気がついて、陸男が、 「どうした?」  と尋ねれば、 「ええ、なんだか頭が痛いの。風邪みたい」 「じゃあ、寝てたらいいだろ」 「でも……」  と妻は言いよどむ。  子育てのまっ最中。一家の主婦は、そうおちおちとは眠っていられない。広い家ではないから、うるさくて休めない。 「いいよ。俺が遊園地に連れてくから」  空模様をながめながら陸男が言う。それが始まりだったろう。  少し遠いけれども、横浜の遊園地は遊びどころが多い。お金がかからないのもうれしい。四人分の弁当を用意し、あとは菓子類とジュースを現地で買い与えればそれでいい。まる一日たっぷりと時間を潰《つぶ》すことができた。 「おまえはどうする?」 「お茶漬けでも食べるからいいわよ。一日寝てればなおるから。お願いします」 「うん。わかった」  大喜びの子どもたちと一緒に出かけた。  ライオンの檻《おり》がある。虎も眠っているし、豹《ひよう》も木の上にいる。猿山もあるし、爬虫《はちゆう》類を集めた屋根つきの建物もある。  遊園地を見終ると、公園にまわり、ここには木の柵《さく》で囲った一画があって、時間ごとに兎《うさぎ》やモルモットを放してくれる。子どもたちは、それを追いかけ、つかまえて膝に抱く。ふっくらとして毛糸玉みたい……。  それに飽きると、今度は本当の遊園地。ブランコに乗り、ジャングル・ジムに登り、砂場で遊ぶ。日本列島を形どった跳び石があり、そのあたりでピョンピョンはねるのが、一日の行楽の終点だった。  盛りだくさんなのは結構だが、子どもと一緒に見てまわるのは大変だ。まったくの話、むこうはエネルギーに溢《あふ》れている。なにかしらおもしろそうなものがあれば、かならず首をつっこむし、いつまでもながめている。大人はとてもつきあいきれない。  危険がないのも、この遊園地の特徴だった。  二、三度行くうちに、どこから入って、どこを通り、最後はどこにたどりつくか、コースはきまってしまう。お昼の弁当を食べ終ったところで、 「おまえたちだけで遊んでいろよ」 「お父さん、どこへ行くの?」 「うん、ちょっと用があるから。朋恵、よく見てやれよ」  長女を監督係に命ずる。  幼い二人は不安そうな表情を浮かべるが、慣れてしまえば、そのほうが自由に遊べる。時計塔のありかは知っている。 「何時ごろ帰って来るの」 「四時だな」 「うん、わかった」 「じゃあな」  陸男は遊園地を出て繁華街へ向かう。多少の心配はあったが、普段だって親の眼のとどかないところで遊んでいるんだから、とくに今日だけ気に病む理由もない。  陸男にとっても週に一回の休日である。気晴らしがほしかった。  パチンコ屋へ入る。古本屋をのぞく。音楽を聞きながらコーヒーをゆっくりと飲む。  堀割りを越えて裏通りに入ると�歌麿�だの�クレオパトラ�だのと看板をかかげた悪所があって、昼間から営業していた。  ワンピースの女が陸男の前を歩いて行く。薄い布地の下で、いかにもばねのありそうな体が弾んでいる。女は角を曲がり、陸男があとを追って曲がると、もう女の姿はない。どこかのドアへ入ったのだろうが、なんとなく白昼夢を見ているような不思議な感じだった。  一度だけ、そんな店に入ったことがある。 「いらっしゃいませ。ご指名は?」 「だれでもいい。いい子、いないかな」 「はい。じゃあ、秋田さん」  この店の女性は、都道府県の名をつけている。 「秋田さんてのは、やっぱり美人につけるのかなあ」  細い階段を昇りながら陸男はあいかたに尋ねた。 「そんなことないみたい。順番で、あいてる名前があると、それになっちゃうの」  女は陽気で屈託がない。秋田美人にはほど遠いが、肌の白さは北国を連想させてくれる。 「何時からやってんの」 「早番は二時から。お客さん、初めてですか」 「うん」  ベッドのある浴室。陸男が裸になり、女も裸になった。細い体だが、胸はふくらんでいる。  ——子どもたちは、どうしているかな——  今ごろは動物園から公園に移ってモルモットを抱いているころだろう。  ——恭子はどうしているかな——  妻はあまり体の丈夫なほうではない。病気のときは眠るのが一番だ。ぐっすり眠っているにちがいない。子どもたちを連れ出してやったのは、ささやかながら女房へのサービス……。  ——しかし、こんなことやってちゃ、サービスにはならんなあ——  もちろん、やましさはあるが、男の世界はこんなものだ。家庭をこわすほどのめりこんだら、いけない。でも、これはほんの気晴らし……。  女に体を洗ってもらい、ベッドで抱きあった。女の体は若くて心地よいけれど、すべてが流れ作業みたい……。九十分で一丁あがり、となる。 「いくら」 「はい、すみません」  一カ月の小遣いの半分以上。今月は切りつめなくちゃあ……。  ——無駄遣いをしたなあ——  子どもたちになにかを買ってやったら大喜びをしただろうに……。このあたりの価値観は、どれを大とし、どれを小とするか、なかなかむつかしい。  日曜日のせいか、昼日中から酒を飲ませている店があった。港町の習慣なのだろうか。それとも陸男がたまたま穴場を見つけたのかもしれない。  カウンターだけの割烹《かつぽう》店。和服の女が一人……。 「お早いのね」 「何時から開いてるの?」 「三時から……。でも八時には閉めるの。結構お客さん来るのよ。かわいたものくらいしかないけど、なんにします?」 「ビール。あたりめ。こんにゃくの煮つけ」 「はい。横浜のかた?」 「いや、ちがう。ちょっと仕事があって」  子どもを遊園地に置いて来たとは言いにくい。 「日曜日なのに?」 「まあね。ママこそ日曜なのに働くじゃない。残るぞお」 「ママじゃないの。ここ、姉の店なの。私は木金土だけ手伝って……。それから日曜日の売り上げはお小遣いにしていいことになってるの」 「ああ、なるほど」  事情がすっかりわかってたわけではないが、この店には何度か顔を出した。子どもたちを横浜の遊園地によく連れて行った理由の半分は……半分以上はこのせいだったろう。  カウンターの中の女が好きだったわけではない。わるい感じの女ではなかったけれど、それだけでなにかが起きるものではない。 「もう四時か」 「そうね。この時計、少し進んでいるけど」 「お勘定してくれ」 「待ちあわせ? いいわね」 「いや、そんなんじゃない」  急ぎ足で遊園地へ向かった。子どもたちは案の定、日本列島の跳び石の前で待っていた。 「そこが北海道よ」  幼い精二は、なにをいわれたのか、よくわからない。知床半島のあたりで片足をあげていた。順一は九州から足を伸ばして、かろうじて沖縄を踏んでいる。 「もう四時半だよ」 「すまん、すまん」  五時まで遊んで家へ帰った。  子どもたちが大きくなるにつれ、陸男が遊園地に戻る時間が五時になり、それから六時過ぎまで遊んで帰るのが習慣になった。  恭子が胃|潰瘍《かいよう》の手術をした。  あのときも子どもたちを連れて一日だけ横浜へ行ったはずだ。  そして陸男はいつものように割烹店をのぞく。 「奥さん、おありなんでしょ」 「うん、どうして」 「いえ、べつに。見ればわかるわ。お子さんもいらして」 「うん、いる、いる」  嘘をつく理由もない。  女とは何度か顔をあわせ、かなりうちとけていた。陸男がこんなところで、こんな時間を持っていることなど、だれも知らない。眼の前の女は知っているが、その女は陸男が何者か知らない。名前を告げたこともなかった。  ——日常とはちがう時間が流れている——  それほど大げさに考えることもないのだろうが、そんな意識がないでもない。  ——男はだれだって、こんな時間を持っているものなんだ——  男だけではない。人はだれでも日常とはちがったもう一つの時間を持っている……。主要道路のわきに、もう一つバイパスがあるみたいに。少なくともそんな時間を持ちたいと願っている。 「何人いらっしゃるの、お子さん?」 「三人だ。女、男、男」 「いいわね、大勢で」 「あんたは独りなのか」 「そう」 「結婚したことないの?」  三十五、六にはなっているだろう。 「したこと、あるわよ。子どもも二人産んで」 「へえー、それで」 「離婚しちゃった」 「子どもを育てているわけか」 「ううん。もとの亭主のところにいる。つぎの奥さん、もらったんじゃないかしら」 「どうして離婚なんかしたんだ」 「べつに好きな人ができちゃって……」 「激しいこと、やったんだなあ」 「そう。いま考えてみると、夢の中みたい。奥さんをやりながら時間を盗んで男と会ってたの」 「そんなにいい男だったわけか」 「すったもんだがあって、別れてしまえば、ちっともいい男なんかじゃないわよ。どうしてあんな男と、って思うくらい。でも……なんて言うのかしら、普通の生活のほかに夢の時間がほしかったのね、きっと。ほら、電車に単線と複線があるじゃない」 「ああ、複線ね」  つまり、本線とバイパスだ。女も陸男と同じことを考えていたらしい。 「へんな話、しちゃったわね。ビール、もう一本あけますか」 「いや、いい。俺も本線に戻らなくちゃ」 「そうみたいね」  女はなにか感づいていたのかもしれない。  女に会ったのは、このときが最後だったろう。次に行ったときは格子戸に鍵がかかっていた。その次も、そのまた次もそうだった。日曜日の営業はやめになったらしい。  ——なにかあったのかな——  女にとっては、あの店にいること自体がバイパスだった……。  そのうち陸男も足を運ばなくなった。子どもたちも大きくなり、もう遊園地に興味を示さなくなる。横浜は遠くなり、陸男ももっとほかのところにバイパスを求めなくてはならなくなる。  そして、長い時間が流れた。  今日、久しぶりに横浜に来た。 「もう六時か。行かなきゃ」  カウンターの割烹店。とてもよく似た店を見つけた。和服の女、ビールにあたりめ、こんにゃくの煮つけ。駅に近い裏通り……。  酔った頭の中で、昔と今が交錯する。 「またどうぞ」  大急ぎで繁華街を抜け、遊園地へ戻った。  もう日が暮れかけている。そこだけが記憶とちがう。恭子は入院中。しかし、今度はいけないかもしれない。  日本列島の跳び石……。  朋恵は静岡へ嫁いだ。順一は博多へ行っている。精二はついこのあいだ盛岡へ転勤した。  もう跳び石の上に人影はない。 [#改ページ]   第六話 御香典  帰宅したのは九時過ぎだったろう。そう遅くはなかったが、日出雄は少し酔っていた。電話のベルが鳴る。洋服を脱ぎながら受話器をとった。 「もし、もし……ああ、今晩は。えっ、いつ? そりゃどうも。急だったの? 年だからねえ。まあ、仕方ないさ。みなさんに力を落とさないようお伝えくださいねっ。はい、ご苦労さま」  短く話して電話を切った。むこうが切っちゃったのだからどうしようもない。 「だれ?」  妻の君子がターバンの頭で尋ねる。頬《ほお》が上気しているのは風呂あがりのせいだろう。 「米子《よなご》のおばあちゃんが死んだそうだ。葬式ももうすんじゃったらしいぞ。遅ればせながら連絡するって……」 「だれからなの、今の電話は?」 「圭一君。知らんだろ?」 「ええ」 「俺だってよく知らん。いくつになったのかな。大人びた口調で言ってたけど」 「親戚《しんせき》って言っても、ほとんど米子とは縁がないから」 「まあ、そうだな」 「いつのこと?」 「先週の水曜日だって」  米子の家では、日出雄のところに連絡をし忘れ、一段落したところで思い出し、あわてて電話をかけてよこしたのだろう。そのくらい薄い関係になっていた。日出雄としても、つい先日職場が変ったばかりで今は休みを取りにくい。米子は飛行機で行くにしても、そう近いところではない。本心を言えば、この遅い連絡はありがたかった。むこうもそのあたりを考えて、電話を遅らせたのかもしれない。 「米子のことは、私、わからないから」  君子がお茶を入れながら言う。  死んだお豊おばあさんは、日出雄の父の姉にあたる。もともと米子の人で、その娘に千恵さんがいて、その息子が米子市内に家を構えている。今、電話をかけてよこした圭一は、その長男のはずである。四世代が一つ家に暮らしていたわけだが、日出雄が知っているのは、お豊おばあさんと千恵さんまで、それより下の世代は一、二度顔をあわせたが、せいぜい名前を知っている程度の関係だった。 「おいくつでしたの、おばあさん?」  従姉の千恵さんでさえ、日出雄よりひとまわり上の酉《とり》年で、誕生日が来れば六十七歳になるはずだ。 「九十に近いんじゃないのか。いや、ちょうど九十か。俺がものごころついた頃から、もうずーっとおばあさんだったからなあ」 「でも、お世話になったんでしょ」 「なった、なった。ほかの人はあんまりよく知らんけど、あのおばあさんには世話になったよ。終戦後、荻窪に家があって、俺はそこから大学へ通ったんだ。サラリーマンになってからも、しばらくは居候をやってたんだから」  当時の家族は千恵さんを除いて、みんな他界してしまった。 「きびしい人だったらしいじゃない」 「うーん。きびしいって言うのかな。俺は、ほら、お袋を早く亡くしただろ。だから、おばあさんが母親がわりみたいな気分で、いろいろ注意してくれたんだ」 「頭があがらないわけね」 「そういうこと。どうもあのおばあさんの前に出ると、俺、いつもヘマばっかりやっちまってな。ろくな思い出がないよ」 「そうなの」  死亡の知らせを聞いたら酔いが少しさめた。リビングルームの椅子に腰をおろして、日出雄はお茶をすすった。 「ああ。一度、あんこを作らせられたことがあってさ」 「あんこ?」 「うん。知らんだろ」 「あんこくらい知ってるわよ」 「そうじゃない。あんこの作り方。小豆《あずき》を煮て」 「昔、やってたわねえ」 「長い時間をかけてグジュグジュ小豆を煮て、そのあと木綿の袋に入れて、こすんだよ。一応力仕事だからな。その仕事をまかせられたんだけど、俺、袋の中に残ったほうが大事なんだと思っちゃってな」 「馬鹿ねえ」 「知らなきゃそう思うんじゃないのか。あんこのほうはお湯と一緒に袋の外に出る。それに砂糖を加えて煮つめるんだけど、俺、袋をギュウギュウ押しながら、そっちはみんな台所の流しに流しちまったんだ」 「怒られたでしょ」 「あきれられたよ。荻窪の家に行ってすぐの頃だったから、まいったなあ、あのときは」  戦後の食料事情はまだ充分には回復していなかった。小豆が貴重品の頃だった。しかも、おばあさんが何時間もかけて丹念に煮込んだ小豆である。下水管に流れて行ってしまっては、もうどうしようもない。 「もうひとつ、落語みたいな話もあったじゃない」  最近は夫婦で昔話をすることが多い。長女は嫁に行き、大学生の長男はまだ帰らない。日出雄たちも着実に老後の生活に入り始めている。まさか九十歳まで生きることはあるまいけれど……。 「なんだったっけ」 「マッチ会社の火事」 「ああ。話したかなあ」 「話してくれたわよ、新婚旅行のときに。俺はオッチョコチョイのところがあるから、よろしくって。それが言えるだけいい人だと思ったわ」 「俺、オッチョコチョイかな」 「まあねえ。多少はそういうとこ、あるんじゃない」  君子はうれしそうに笑う。  君子の前では、さほどの失敗をやってないだろう。いや、三十年も一緒に暮らしていれば、馬鹿らしい出来事の一つや二つあるけれど、それはだれにでもあることだ。日出雄の荻窪時代は、そう長い年月でもないのに、なにかしらヘマをやっていた。 「あれは消防車が三、四台、ものすごい勢いで走って行ったんだよな。俺、火事が好きだから、外へ飛び出して行って、どうしたんだって聞いてまわったんだ」 「そしたら、マッチ会社が火事だって」 「そう。近所の薬屋の主人が大通りのほうから帰って来て、教えてくれたんだ。だから俺は家に駈け戻ってそう伝えたよ。おばあさんがさあ、そりゃ大変だ、マッチ会社なら保積先生の家の近くだって……。あの頃、お世話になってた人がいたんだよ。電話なんかないしな。おじいさんがまだピンピンしてたから、とにかく行ってみようって、自転車で飛び出してったんだ。でも、なーんもない。保積先生のとこへ行って、大恥をかいちゃったって」 「あなた、本当にマッチ会社だって聞いたの?」 「俺はたしかにそう聞いたと思ったのに、あとで薬屋の主人にたしかめたら、まちがいだ、まちがいだって、そう言ったんだって……」 「マッチ会社とまちがいねえ。多少似てるわ。でも逆よりいいんじゃない」 「逆って?」 「まちがいだって聞いて知らん顔してたら、実はマッチ会社だったら、ひどいじゃない」 「そりゃそうだ。マッチ会社の火事なら、さぞかしよく燃えるだろう。こりゃ大変だと思ったとたん、よくたしかめるのを忘れたんだろ、きっと」 「叱られた?」 「叱られたというより、じゅんじゅんと説教されたな。人には聞きまちがいはあることだし、そりゃ仕方ないけど、これから世の中に出て、そんなまちがいをしないようにって……」 「あるわよね、そういうこと。一郎だって、ほら、お友だちのお母さんが外交官だって言うから、女だてらにすごいなって思ったら、保険の外交だったじゃない」 「そりゃ、ただの聞きまちがいとはちがうさ。さて、寝るかな」 「ご香典、送らなくていいの?」 「あ、それは送らにゃならんだろ。明日、手紙を書くよ。あんまり高く包むこともないだろ」 「ま、そうね。おばあさんの手に渡るわけじゃないし。連絡だってすぐに来なかったくらいだから」 「うん。そうしよう、おやすみ」  日出雄はお茶を飲み干し、手洗いに寄ってから布団に潜り込んだ。  だが、すぐには眠れない。思うともなくおばあさんのことを考えた。しっかり者だった。明治の女らしく目立たないところで一家の幸福を支えていた。  ——ここ十数年会ってなかったな——  体は頑健な人だった。頭もしっかりとしていた。電話の話では、今年の正月から寝込んでいたと言う。もう少し事情を聞けばよかった。いきなり「おばあさんが死にました」と言われて、日出雄も少しうろたえた。若い人の電話だから要領をえない。口上だけを伝えて切ってしまった。ほかの人が連絡をしてよこせばいいのに……。  ——千恵さんはどうしてるのか——  千恵さんだって、言っちゃあわるいが、死んでもおかしくない年齢だろう。看病やら葬式やらで寝込んでしまい、それで圭一君に連絡を頼んだのかもしれない。  千恵さんは二人姉妹で、妹がいた。真由ちゃんといって、日出雄より二つ下。色白のきれいな人だったが、この人も早く死んでしまった。  ——あれもひどいドジだったなあ——  真由ちゃんの結婚がきまり、新居に荷物を運び込むトラックに乗るのが日出雄の役目だった。おばあさんが、 「ああ、そうそう。二階の押入れから、春の絵を持ってってあげて」  出発まぎわに頼まれた。  知人に日展に入選した画家がいて、同じ号数の春の絵と秋の絵と二枚があったのだが、日出雄は新婚家庭と聞いて、妙なことを考えてしまった。  ——あれだ——  とっさに思いついたのが、二階の押入れの箪笥《たんす》の奥深く隠してある春画のこと……。まあ、春の絵と言えば春の絵である。結婚する娘にそういうものを持たせる習慣が、どれほど実行されていたかはともかく、ないでもなかった。  里帰りして来た真由ちゃんが、 「なんであんなもの……」  と苦情を言ったらしい。おばあさんのほうはなにを言われたのかよくわからない。真由ちゃんのほうも恥ずかしくて、はっきりとは言えない。 「あなた、ほしがってたじゃない」 「だれがほしがるのよ」 「正樹さんも喜ぶと思ったのに……」 「そんな人じゃないわよ」 「床の間に飾ったら……。あるんでしょ、床の間」  さすがにこのへんまで会話が進むと、おかしいと気づく。  ——さては日出雄さん——  箪笥の奥にひっそりと隠してあったのだから、日出雄がその存在を知っていたことさえ、あまり名誉にはならない。 「なにやってんのよ」 「本当にそそっかしいんだから」  真由ちゃんには恨まれるし、おばあさんからはお小言をくらうし、笑い話としてあとあとまで語られた。まったく頭があがらない。ほかにも思い出せば似たような失敗がいくつかある。  翌朝、日出雄は少し早起きをして弔慰の手紙を書いた。字はあまりうまくない。手紙を書くのは苦手である。  ——おばあさんが生きていたら、字が汚いの言葉遣いが違うの、また文句を言われるかもしれないぞ——  そんな意識がつきまとう。いくつになってもおばあさんは、それを言うつもりでいた。  ——しかし、今回は大丈夫。死んでいるんだから——  香典のほうは、一万円を白紙で包み、  ——少ないかな——  そう思ったが、人間にはひどくけちになってしまう瞬間があるものだ。二万円包んだからといって、なにかいいことがあるわけではない。送るほうの立場に立てば、一万円と二万円は明白に違う。微妙なところだが、一万円でも儀礼はつくせるだろう。 「現金書留の封筒、あったよな」 「ええ」 「じゃあ、これを出しておいてくれ」 「わかりました」 「そう言えば、自分の両親と、それからその両親の両親と、合計六人の年齢をたしあわせて六で割ったあたりが、当人の寿命だって説があるぞ」 「あなたのとこ、わりと短命なんじゃない」 「うーん。俺の場合はいくつになるのかな」 「でも昔より寿命が伸びてるわよ」 「まあな」  君子とたあいない話をかわしてから家を出た。  ——九十歳まで生きれば本望だろう——  明るい出来事ではないが、長く悲しむほどでもなかった。  ——これにて一件落着——  そうなるはずであった。  それから五日たって、土曜日の午後、日出雄が植木の手入れをしていると、手紙が届いた。君子は買い物に出たらしく、留守である。  ——あれっ——  封書を裏返し、はじめは見まちがいかと思った。次に、死んだ人の遺志により、こんな手続きが取られることもあるのかと思った。白い封筒の裏におばあさんの名前が記してある。  封を切って読んだ。 �……死んだのは私ではありません。千恵のほうです。私ももう死んでいい年ですから、まちがわれたのは仕方ないけれど、一言だけ言っておきます。千恵が死んだのなら一万円の香典で不足はないけれど、私が死んで、それで一万円はいけません。あなたはとても私の世話になったのですから。世間様に笑われます……�  当人にこれを言われてはかなわない。  九十歳になっても、おばあさんはちっともぼけていないらしい。おそらく下唇などを噛《か》んで……矍鑠《かくしやく》たる姿が浮かんだ。 [#改ページ]   第七話 市民感覚  土曜日の昼さがり、茂一は犬を連れて散歩に出た。会社は週休二日制を採っている。ゴルフに行かない日はやることもない。土曜日のテレビは日曜日に比べて見どころが少ないようだ。  いつもの散歩コースを歩き、家に向かう角を曲がったとたんに鎖がピンと張る。犬が走り出そうとする。目をあげると妻の昭子が小走りに寄って来た。 「どうした?」  昭子は跳びつく犬をなだめながら、 「芳雄さんが来てるの」  と眉根を寄せる。 「ふーん、なんだろう」 「あなたにお願いごとがあるんですって」 「金かな」 「そうでしょ」  芳雄は茂一の従弟だが、年齢はひとまわり以上も若い。たしか三十四歳になったはずだ。 「今、なにをしてんだ?」 「そんなこと、私にわかるわけないでしょ」 「そりゃ、そうだが……」  この前、芳雄の顔を見たのはいつだったろう。多分、芳雄の父の三回忌のとき。黒い服を着て、かしこまっていたが、あのときも、  ——なにをしてるのかな——  と訝《いぶか》った。  名刺の肩書きには、なんとか企画の係長と書いてあったけれど、どれほどの会社かわからない。  茂一は芳雄の父にずいぶん世話になった。叔父の家に下宿していた時期もある。だから芳雄に対しても弟のような気分が残っているのだが、むこうはどう考えているのか、これもわからない。  芳雄についてはあまりよい評判を聞かない。昔も、今も……。高校を中退し、家には寄りつかなくなった。くわしい事情は聞かなかったが、想像はつく。女と同棲してヒモのような暮らしをしていたときもあったようだ。 「若い頃はいろいろあるんじゃないですか」  茂一は、どちらかと言えば芳雄の肩を持ってやったほうだ。小さい頃はすなおな子だった。茂一によくなついていた。寄ってたかって鼻つまみにしたら、立ちなおるチャンスも失ってしまう。それに……いったん道を踏みはずしても、三十を過ぎてまともになる人だっていっぱいいる。なにがまともで、なにがまともでないか、それだってはっきり言えることではあるまい。名の通った会社のサラリーマンだけがまともということもないだろう。  だが、この判断は少し甘かったようだ。  芳雄について聞こえて来る噂は、いつになってもはかばかしいものではなかった。  茂一の会社に訪ねてきたことがある。 「お金を少し貸してほしくて。かならず返します」  ひどく困っているようだった。たいした金額ではなかった。それから二年ほどして今度は家に訪ねて来た。このときもやはり、 「お金を少し貸していただけませんか。かならず返しますから」  ちょっとした仕事の手ちがいで不如意になってしまったと、そんな話だったが、実情はどうだったのか。二度とも貸したお金は返って来なかった。めったに顔を見せないが、よい暮らしをしているとは思いにくい。 「子どもたちは?」  茂一は昭子に尋ねた。 「まだ学校よ」 「うん」  安堵を覚えた。正直なところ、芳雄の姿を子どもたちに見せたくはない。 「また貸すんですか」 「金額にもよるけど」  昨日がボーナスの支給日だった。  まさか芳雄はそこまで知っていて訪ねて来たわけではあるまいが、少し気味がわるい。蜂が蜜《みつ》のありかをかぎつけるように、お金のあるときがわかるのかもしれない。 「叔父さんに頼まれたからなあ」  死のまぎわに「芳雄をよろしく」と言われた。 「でも……」 「そのわりにはなにもしてやってない。タバコ銭くらいなら仕方ないだろ。それ以上のことは、どの道できない」 「あなたは断われないたちだから」  話しているうちに家についた。 「やあ、今日は」 「ご無沙汰してます」  芳雄は丁寧にお辞儀をした。丁寧すぎるようにも見えた。着ているスーツはわるくないが、表情が卑屈である。顔色もくすんで健康的とは言えない。 「午後の便で北海道へ行くもんだから」  羽田空港はここから近い。だが、それだけの理由で立ち寄ったわけではあるまい。 「今、なにしてんの」 「ええ、会社をぼちぼち……」  と言葉を濁す。それ以上は言わない。  しばらくは世間話を交わした。  芳雄の話しかたは丁寧だが、どこか胡散《うさん》くさい。含むところがありながら下手《したて》に出ているような……。そんな口調が、身についてしまったのだろう。 「茂一さんはエリートさんだから、よろしゅうおまっしゃろけど」  時折関西弁をまじえ、チラッと上目遣いで様子をうかがう。厭な目つきだ。 「なにか用? 急いでるようだけど」 「ええ……。またちょっとお金を拝借しようと思って……。すんません。今度は本当に返しますわ。あてもありますねん」  それを言うのなら、今までの借金について釈明があってしかるべきだろう。それを返さずにおいて、今度は本当に返すと言っても当てにはならない。 「なんで私のとこなんだよ。ありゃしないよ。家を買ったときの借金も残ってるし、子育ても大変だ」  芳雄は�ご冗談を�とばかりに目の前で手を振り、 「いいお宅でんな。三十万ほど、お願いします。恩に着ますわ。一生の頼み、この通り」  と、すわりなおし畳に頭をつける。  三十万は大金だ。とても相談にはのれない。 「駄目だな」 「ボーナスなんかたっぷり出るんでしょうなあ。こちとら、そういうものには縁がないから」  と薄笑っている。 「芳雄さん。まじめな話、三十万円は私が気安く都合できるお金じゃないよ。今までのぶんはもういいから、返さなくて。だから、こんな話、なかったことにしてほしいな。ね、そうしよう」  きっぱりと断わった。 「駄目ですか」 「残念ながら駄目だな」 「困ったなあ」  大げさに眉をしかめる。 「あいにくだったね」  冷たく言い放った。 「どうしても?」 「どうしても」 「そうですか、茂一さんだけが頼りだったんじゃけど」 「サラリーマンも楽じゃないんだ」 「そうは思えませんがね……。ま、そうおっしゃるなら仕方ないわね。じゃあ、ほかをまわらなくちゃならんので失礼をさせてもらいますわ」  思いのほかすなおにあきらめた。気の毒に思ったが、ここで弱味を見せたらいけない。 「わるかったね、役に立てなくて」  立ちあがった芳雄のうしろ姿に告げた。 「まったく八方ふさがりですわ」 「今年の後半くらいから景気が回復するらしいよ。少しはいいこともあるさ」  芳雄がふり返り、妙な薄笑いを浮かべた。 「景気が回復したって、わしらにはなんも関係ないわね。そりゃ、茂一さんたちは日本の景気がよくなりゃ、わけまいをたっぷりちょうだいするでしょうけど、わしら、日本がどうなろうと関係ないわね」  まなざしが冷たい。一瞬、茂一は、得体の知れない気味のわるさを覚えた。 「元気でね」 「あ、どうも」  芳雄はそそくさと立ち去って行く。 「どうでした?」  昭子が心配そうに顔を出す。 「やっぱりお金を借りに来たよ」 「それで?」 「断わった」 「よかった」 「うん。しかし、こわかったな」 「どうして? ゆすられたの」 「いや、そうじゃない。目つきがよくなかった」 「いやねえー」  唇を一つとがらせてからキッチンへ戻って行く。  茂一は縁側に出てタバコを喫った。  ——叔父さんはりっぱな人だったのに——  それを考えずにはいられない。  叔父といえば……よく記憶している話が一つある。叔父の家の縁先だったろう。 「犬釘を抜くやつがいるんで困ってしまう」  叔父は話のうまい人だった。身ぶり手ぶりをそえて子どもたちに話して聞かせる。なにげない話の中にも教訓が含まれていた。  あれは……戦時中の大陸……。韓国か中国。叔父は鉄道の技師だった。現地人の中に、鉄道の犬釘を抜き、それを屑鉄屋に売って銭に換える者がいたらしい。 「これには手をやいてなあ。対策が立てられない。大陸の鉄道ってのは、無人の広野を走っているんだから。警備隊ぐらいじゃどうにもならん。線路に網を張るわけにもいかんしな……。鉄道が通れば、みんなのために役立つんだが、自分たちのちょっとした欲望のために犬釘を抜いちまう。こういう不心得が国を発展させないんだ」  大陸の鉄道敷設は侵略手段の一つだったろうから、叔父の言葉が全面的に正しいとはいいかねる。戦後に育った世代はそう思う。いずれにせよ古い話だ。  だが、叔父の言わんとしたことがわからないでもない。犬釘数十本であがなえるものなんて一家の食事くらいのものだったろう。それと鉄道の安全を引きかえにされたらたまらない。国は発展しない。叔父はさぞかしにがにがしく思ったにちがいない。  だが、それは叔父の立場だから言えることでもある。正論にはちがいないが、一つの正論でしかない。正論とは無縁の人たちもいる……。今、茂一がこんな話を思い出したのは偶然ではあるまい。  芳雄のまなざしは、とても無気味だった。見てはいけないものを見てしまったように感じた。  そう、たしかに日本全体が豊かになれば、茂一はそのおこぼれに預かることができる。茂一だけではない。茂一が毎日つきあっているほとんどの人たちがそうだ。実際にそうであるかどうかはともかく、茂一が知っている人たちは、みんな無意識のうちにもそう感じている。  ——それは俺たちが恵まれた情況にいるから——  つきあっているほとんどの人たちがそうだから……。だが、国そのものが豊かになっても、そのおこぼれにけっして預かれない人もいる。ことのよしあしの問題ではなく、今までの人生で何度もそういうむなしい体験を味わい、  ——国が豊かになったって、俺たちには関係ないさ——  と、心からそう思っている人たちもいる。  つい先日、茂一は東南アジアへ行った。  大勢の貧しい人たち……。高層ビルのすぐ裏手にバラックを建て、痩《や》せこけて暮らしていた。  ——国が少々豊かになったとしても、この人たちには関係がないのではあるまいか——  そうあやぶんだ。  芳雄がろくでもない生活をしているらしいのは、もとより彼自身の責任である。  だが、茂一がさっき芳雄のまなざしに恐怖を覚えたのは、  ——こいつにとっちゃ国が豊かになることなんか、本当にどうでもいいんだな——  と感じたから……。  ——そんなこと、俺には関係ないね——  本気でそう思っていると気づいたから……。  なにをやるかわからない。そんな気配を身近に、たしかに感じたからである。  茂一は少しナーバスになっていたのかもしれない。  子どもたちが学校から帰って来た。 「お父さん、きのうボーナスが出たんでしょ」  昭子から聞いて知っているらしい。 「ううん」 「ねえ、出たんでしょ」 「まあな」 「なんか買って」 「そうもいかん」  遅れて部屋に入って来た姉娘が弟に向かってさとす。 「お父さんにボーナスが出たって、私たちには関係ないのよ。お小遣いがもらえるわけじゃないし」 「待てよ。本当にそう思うのか」  茂一はすわりなおした。剣幕に驚いて子どもたちが父の顔を見つめる。 「だって……」 「家が豊かになれば、かならずおまえたちにも、なんかしらいいことがあるはずだ。いいことがなかったことなんか一度もないだろ。大事なことだぞ。忘れるな。目さきの利益じゃない。家にいいことがあれば、かならずみんなにいいことがある。国にいいことがあれば、かならずみんなにいいことがある。ないはずがない」  これだけはしっかり言っておかなくてはなるまい。教えておかなければいけない。茂一は同じ言葉をくり返しながら一人でうなずき続けていた。 [#改ページ]   第八話 男同士 「お鮨《すし》を食べに行こうか」 「えっ、本当」  土曜日の夕刻、尚武《なおたけ》は長男の和平を連れて外に出た。  妻の絹子は長女と一緒に学校のバス旅行に出かけている。帰りは八時過ぎになるらしい。 「和平になにか食べさせておいて」  と頼まれていた。  まだ外は明るい。  和平はスキップを踏みながら父親の少し前を行く。ときどきふり返り、笑いかけ、ひどくうれしそうだ。 「はじめてか」  と聞くと、 「お鮨くらい食べたことあるよ」  と胸を張る。  小学四年生。こんな動作もまだあどけない。  いくらなんでも息子が握り鮨を食べたことがあるかどうか、そのくらいのことは尚武も知っている。おみやげの折り詰めを持ち帰ったこともあるし、客が来れば鮨の出前を取ることもある。ついでに子どもたちのぶんを取ったことも、あったはずだ。  尚武が尋ねたのは、カウンターにすわって食べたことがあるかどうか、そのことだったけれど、和平は先に駈けて行く。それ以上は聞かなかった。  多分はじめてだろう。  握り鮨の立ち食い……。この手の贅沢《ぜいたく》は絹子の好みではない。絹子は食べることにあまり興味がない。根が節約家だから、 「口がおごるのって、毎日のことだから馬鹿にならないのよ」  まだしも着飾るほうに興味がある。おしなべて無駄な出費はしないほうである。  ——俺は高校生のときだったな——  尚武には思い出がある。奇妙によく覚えている。  やはり父に連れられて、はじめて寿司屋ののれんをくぐった。 「好きなものを食え」  そう言われても、どれを食べていいのかわからなかった。父と同じものを注文し、あとになってもう一度さっきと同じものを頼んだ。父は尚武に好き放題食べさせておきながら、 「尚武のやつ、いくらでも食うんだ。えらい散財だったよ」  と、あとになって母に歎《なげ》いたらしい。  ——それなら、そう言ってくれればいいのに——  ちょっとうらめしかった。  ——安くはなかったろうな——  子どもだって、そのくらいの見当はつく。でも信じられないほどうまかった。あれ以来、ずっと握り鮨は尚武の大好物である。  志賀直哉の�小僧の神様�を読んだのもあの頃だったろう。貧しい小僧がバス代を倹約して、たった一個のまぐろを食べようとする。あらすじは忘れてしまったが、小僧の情熱だけはよく覚えている。尚武は父に立ち食い鮨の味を教えられ、それであの小説をよく記憶した。そうにちがいない。  子育てというものは、だれにとっても、  ——歴史はくり返すんだなあ——  そんな感じを抱かせてくれる部分がある。自分が父から受け継いだことを、今度は自分が父になって子どもに伝える。  ——この道は、いつか来た道——  そう言い替えてもいい。  同じ情況に置かれて、反対の行動を取るケースもまれではない。父から受けたことを、  ——あれは厭《いや》だったな——  そう思うから、自分が親になったときには逆のことをやるわけだ。  たとえば……そう、尚武という名前……。  これは昭和二十年までの名前だ。そう言ってもまちがいではあるまい。周囲によくある名前だが、昭和二十一年以降にはけっしてありえない。�武を尚《たつと》ぶ�という思想は、あそこを境にして滅びてしまった。憲法第九条の前では好きになれない名前だった。  だから、息子は和平、平和をさかさにして命名した。  和平はもう寿司屋の前に立って待っている。  ——好きなだけ食わせてやろう——  そして、あとは苦情を言わない。人込みを通り抜けて寿司屋のドアを開けた。 「いらっしゃいませ」  カウンターにはまだだれも客はいない。そのほうがいい。男たちが酒を飲み交わす時間になって幼い子どもと二人連れというのは、わけもなく恥ずかしい。寿司屋ならまだ許せるが、小料理屋だったりすると、周囲の客たちは、  ——どういう事情かな——  と勘ぐるだろう。  家族の気配を酒場に持ちこむのは、サラリーマンの仁義に反するような気もする。みんな家庭のことを忘れて飲んでいる……。少なくとも子ども連れはあまり見場のいいものではない。 「ビールを一本」  と尚武は指を立てた。  和平はキョロキョロとものめずらしそうに眺めている。 「お兄ちゃんは、お茶でいいかな」 「ああ、お茶でいい」  と尚武が答え、 「好きなものを食べろ。まずまぐろだな。それから白身」  と、つけ加えた。 「旦那は、なんか切りますか」 「いや、握ってもらおう。まぐろと赤貝」  ゆっくりと刺し身を食べているゆとりはあるまい。案の定、和平はたて続けにペロリと食べてしまう。そしてガラスの中を物色する。 「うまいか」 「うまい。あれ、なーに?」  と小声で尋ねる。 「いかだろ」 「じゃあ、それ」 「はいよ」  いかを頬張ったとたんに、和平の顔がゆがむ。わさびが効いたらしい。いかは身が固いから、わさびとうまく折りあわない。舌の上にわさびそのものが触れる。  そのことにも尚武は思い出がある。  ——俺もそうだった——  父とはじめて食べたとき……。目から涙が出た。それでもおいしかった。 「お茶を飲めばいいんだ」  父にもそう教えられた。同じように和平に告げた。 「おいしいね」 「つぎ、なんにしましょう」 「さっきの……まぐろ」  和平も同じようにもとへ戻った。 「なにが一番好き?」  と、食べ物の好みを尋ねられたら、尚武は、 「鮨かな」  と、答えるだろう。  てんぷらもうまいし、ステーキもおいしい。うなぎもわるくないし、ラーメンだってきらいではない。腹さえすいていれば、たいていのものがそこそこにうまい。  だが、どんなときでも、  ——これはご馳走だな——  と思うのは、やはり握り鮨である。  昨今はキオスクのような店舗で安い握り鮨を売っているけれど、あれだって尚武はうまいと思う。酢飯に生魚がのっていれば、それだけで好物になる。もちろんカウンターでお好みを握ってもらえば最高だ。  ただ絹子が、 「もったいないわ。節約しましょ」  と言うので、家族の前では我慢している。一人で食べるとき……ささやかな人生の楽しみとなる。  絹子といえば……婚約時代にふんぱつして銀座の老舗《しにせ》で絹子に握り鮨をご馳走したことがあった。 「ここで食べよう」  一緒に映画を見た帰りだった。  見合い結婚だから、まだそううちとけてはいなかった。 「ええ……」  カウンターの前に二人並んで腰かけた。  ——この人、慣れていないな——  身ぶりを見ていれば見当がつく。もしかしたら絹子は、あのときがはじめての体験だったのかもしれない。二十五歳になっていたはずだから、ちょっとめずらしい。  しかし、尚武は平凡なサラリーマン。結婚後の経済がさほど豊かになる見通しはなかった。  ——つましい女のほうがいい——  そう思わないでもなかった。  未来の妻に大盤ぶるまいをし、寿司屋を出たところで、 「うまかった?」  と絹子に尋ねた。 「ご馳走様でした。とてもおいしかったわ」  おいしくないはずがない。値段も高かったし、たしかにたねはわるくなかった。  つぎに絹子とカウンターの握り鮨を食べたのは、結婚してからだったろう。  新婚時代……。財布は絹子が握っている。  十円鮨のたぐいだった。  味はそこそこ……。 「うまかった?」  と尋ねれば、 「とてもおいしい」  表情は銀座の店のときとそう変らない。満足の度合いが同じように見える。  ——この人、味がわかるのかなあ——  かすかにそんな懸念を抱いた。  この心配は七割がた的中していただろう。  どんな舌だって、銀座の老舗と十円鮨とでは区別がつく。だが、その区別の度合いが値段の差と見あっているかどうか、それが問題だ。  絹子は値段の差ほど味の差を認めない。さほどちがいがないのなら高いものを食べることはない、これが絹子の考えだった。  こうなると、絹子とわざわざ高い鮨を食べる理由はなくなる。ほかのご馳走についても絹子は似たような態度を示す。いつのまにか外で食事をすることはまれになってしまった。食べるときは、腹を満たすため……。安いものがほとんどである。  和平はたっぷりと食べた。 「もういいか」  と尋ねると、 「うん」  と頷いてから、 「もう一回まぐろ」  と言う。勘定のほうもたっぷりと取られた。 「お母さんには黙っていろよ」  店を出たところで釘をさした。 「どうして」  理由を説明するのがむつかしい。つまらないことを言ってしまった。 「典子がかわいそうだろ」  と娘の名を引きあいに出した。 「そうだね」  この理屈は和平にもわかりやすい。 「男同士の約束だ」  笑いながらつぶやいた。 「うん、わかった」  和平も花のように笑う。 「お父さん、お鮨、好きなの?」 「ああ、好きだ」 「一番好き?」 「そうだなあ。一番好きかもしれんな」 「上と並とがあるんだね」 「ああ」  和平は握り鮨を食べながら、しきりに値段表をにらんでいた。なにかしら感ずるところがあったのだろう。 「上のほうがおいしいんだよね」 「そりゃ、そうだ」  和平はまたスキップを踏みながら走って行ったが、すぐに戻ってきて、 「このあいだ、おじいちゃんのお棺の中にタバコをいっぱい入れてあげたね」  と、聞く。  二カ月ほど前、尚武の父が死んだ。葬儀の一部始終を和平は身を乗り出して見つめていたっけ。  父の好物はタバコだった。一緒に住んではいなかったけれど、孫たちもそのことを知っていただろう。  その父のために、尚武はタバコのカートンを一つ和平に買わせて、棺の中に入れた。和平はそれを思い出したらしい。 「お父さんが死んだらね、僕、お鮨を入れてあげるよ」  無邪気な声で言う。 「そうか。それはいい。お鮨を食べながら、あの世へ行くとするか」 「上鮨がいいね」 「そりゃ、そうだ」 「お母さんはきっと�並でいいのよ、どうせ焼けちゃうんだから�って言うよ」 「そうかもしれんなあ」  苦笑がこみあげて来る。子どもは案外、親のことをよく見ているものだ。 「でも、僕、絶対、上にするから」 「ああ」 「男同士の約束だよ」 「うん、うん」  尚武はゆっくりと頷いた。  和平もきっと�父と一緒に握り鮨を食べた日�を忘れずに覚えているだろう。 [#改ページ]   第九話 秋の色  日曜日の昼さがり。文雄は畳の上に寝転がり、腕枕をして小さな庭を眺めていた。  郊外地の建売り住宅。狭いながらも、借金をしてようやく手にいれた�わが家�である。垣根の植木もまだ充分に葉をつけていない。だから、葉のすきまから外が見える。  そんな垣根だから、外からも当然家の中が見えるはずだが、そこは空地になっていて、わざわざのぞきに来る人もいないだろう。  小学四年生の啓介が濡れ縁に腰かけ、足をブラブラさせていたが、いつのまにかどこかへ行ってしまった。裏の木戸を抜け、空地のほうにでも遊びに出て行ったのかもしれない。  その木戸がそのまま細く開いているらしい。  かすかに人の気配を感じた。そっと入って来るような……。  ——啓介かな——  と思ったが、どうもそうではないようだ。  妻の春子は台所でそうめんをゆでている。遅い昼食の用意……。中学生の娘は朝早くテニスの練習に行った。まだ帰る時間ではない。  ——だれかな——  それより少し前に、空がつくづく青いと思った。まだ暑さが残っているが、空の色はあきらかに秋である。それに、ここは都心を大分離れているから空がきれいなのだろう。空がきれいなのはうれしいが、そんな田舎でなければ土地が手に入らない。見つめているうちに文雄は、子どもの頃に住んでいた国分寺の社宅を思い出した。父が文雄くらいの年齢、文雄が啓介くらいの年齢だったろう。  庭へ入って来たのは、女の子らしい。  草色のブラウス。焦茶色のスラックス。腰にコバルト・ブルーのベルトを巻いている。色あいがとても美しい。  そっと忍び込んで来て、足を止め、文雄の様子をうかがっている。文雄のほうは眠っている。  だから、これは夢なのだろう。  少女の顔立ちは、とても整っている。  ——ああ——  と、納得した。これは、小学生のとき同じクラスにいた美少女、村瀬昌子にちがいない。顔は忘れてしまったが、きっとそうだ。村瀬昌子以外にこんな美少女はいるはずがない。  ——どうしようか——  と考える。せっかくむこうが忍び足で入って来たのだから、こっちが気づいて目を開けてしまっては、つまらない。目を開いたら夢がさめてしまうかもしれないし……。  文雄はずっと目を閉じ続けていた。  少女はしばらく動かずにいたが、急に向きを変え、入って来たときと同じようにそっと出て行く……。草色と青と焦茶色の服装がはっきりと映った。  村瀬昌子は、文雄の家のすぐ近くに住んでいた。でも一緒に遊んだことなんか、ほとんどなかったろう。すでに女の子と遊ぶのは、恰好のわるい年齢になっていた。相手が美少女だから、余計にそうだ。  ——一回こっきりかな——  まだあちこちに原っぱが残っていて、自転車で雑草の中を走り抜ける。赤い自転車が追いかけて来た。それが村瀬昌子だった。 「待ってえー」  声を聞いて少しスピードをゆるめた。  赤い自転車が追いつき、並んで走った。 「速いんだからあ」  と、少女は髪をなびかせてつぶやく。  うれしいけれど、こそばゆい。だれかに見られたら、あとで冷やかされるだろう。  でも、せっかくむこうが仲よく遊ぼうと誘っている。邪険にはできない。しばらく一緒に走った。原っぱに大きな円を描きながら……。  そのうちに村瀬昌子がペダルを止めて降りる。草の上に腰を落とす。文雄は自転車に乗ったまま、そのそばに立っていた。  ——なにを話しただろう——  思い出せない。クラスメートの噂話。最近見たテレビのこと。空だけが青かった。  それから一年ほどたって村瀬昌子は、どこかへ引越して行った。 「村瀬さんとこ、夜逃げだってさ」  そんな噂を聞いた。  夜逃げというのは、夜中に荷車でもひいて家族がこっそり逃げて行くことだろう。  ——そんなわけはない——  村瀬昌子が住んでいたのは、りっぱな家だった。家財道具だって小さな荷車に載るような量ではあるまい。文雄は心配になって引越したあとの空き家に行ってみた。庭にまわって、ガラス戸の中をのぞくと、部屋はきれいに片づいていた。村瀬昌子の父親は銀行員だった。仕事で失敗して左遷された……。浮き貸しのようなミスだったと、これは文雄がずっとあとになって知ったことである。  子どもの頭が考えたのは……お金持ちの家が転落して、美しい娘がドロ沼の生活に落ちて行く、そんな物語である。  三文小説みたい……。だが、子どもの想像にはよくかなっている。ヒロインが美しいだけにドラマチックである。昌子は美貌《びぼう》を売り物にして、悪事に手を染めてしまう。心ならずも悪い連中とつきあっている。それを助けに行くのが、文雄自身である……。  ——彼女、どうしたろう——  三文小説はともかく、もっと現実的に村瀬昌子のその後を考えたこともある。とりわけ町で、凜《りん》とした様子の娘を見かけたときなど、  ——こんな感じだったかな——  と、不確かな記憶をたどった。  村瀬昌子も当然年を取る。文雄と同じように年齢を重ねているはずだ。だから、  ——こんな感じかな——  と思う印象も、三十年のあいだに少しずつ年を取った。  ——あまりいい運命ではあるまい——  なんとなくそんな気がする。美女は薄幸によく似あう。もう死んでいるかもしれない、すっかり老け込んでいるかもしれない。  夢の中に急に村瀬昌子が登場したのには驚いた。しかも、昔のままの若さで逃げていく……。  ——待って——  文雄がサンダルをつっかけて裏の木戸から外へ出ると、そこは一面の原っぱ……。自転車で草を切って走った、あの原っぱが広がっている。  建売り住宅の裏も空地になっているけれど、こんなに草ははえていない。だから、文雄はまだ夢の中にいるらしい。  女がふり向いて手招きをする。  どこにいたのか啓介がそのあとを追って行く。  ——いけない——  文雄は激しい狼狽を覚えた。とにかく�よくない�と感じた。  やはり村瀬昌子は悪いことに加担しているらしい。三十年たっても昔のままの顔でいること自体が、よくない証拠である。まじめな暮らしをしていれば、そんなことはありえない。 「啓介……」  呼び戻そうとしたが、声が出ない。それがもどかしい。あせりを感じた。パクパクと口だけを動かしている。逆に、背後から、 「御飯よ。早くいらして。啓介も呼んで」  と、妻の声が聞こえた。そうめんがゆであがったのだろう。  今度は本当に目をさました。  鮮明に色のついた夢だった。草色のブラウスと焦茶色のスラックス、それを区切ってコバルト・ブルーのベルトが鮮やかだった。  ——どうして、あんな色なのかなあ——  村瀬昌子と結びつくものはなにもない。 「卵、いるでしょ」 「ああ」  と答え、いったん食卓に向かいかけてから文雄は、向きを変えて庭へ出た。 「啓介、啓介」  大声で呼んだが姿が見えない。呼びながら木戸を出て路地のほうまで行ってみた。やはり啓介はいない。 「いないぞ」  平たいざるの上に、そうめんが盛ってある。ガラスの鉢に汁を入れ、といた卵を混ぜ、もみ海苔《のり》を散らした。 「どこへ行ったのかしら」 「さっきまでそのへんにいたのになあ」  ほんのちょっぴり不吉な予感がある。妖しい女に魅入られ、どこかへ行ってしまったのではないか。 「もうすぐお昼だって、わかってるくせに」 「今に戻って来るさ」  妻と二人だけでそうめんをすすった。汁が冷たいので、とてもおいしい。  そうめんもカン入りの汁も、そして多分もみ海苔も、みんな到来物である。啓介はあまりそうめんが好きではない。  遊びに夢中になれば、帰って来ないかもしれない。このごろの子どもは、食べることにそう熱心ではない。文雄たちの若い頃とはちがっている。昔は、まず食べることが第一だった。遊びに夢中になって、食べるのを忘れるなんて、ほとんどないことだった。  到来物のそうめんを、到来物の汁にひたして、ありがたく妻と二人で食べた。  食べ終っても啓介は帰らない。 「しょうがないわね」 「変だな」 「どうして?」 「いや……べつに」  春子は、余ったそうめんをボウルに移し、ラップをかけて冷蔵庫の中にかたづけた。文雄はテレビの前に寝転がって、ゴルフの中継を眺める。  ——昔はよく牛になるって言われたけど——  今は、そんな途方もないこと、だれも言わない。啓介はこの迷信さえ知らないかもしれない。  二時になっても、三時になっても啓介は帰らない。  少しずつ不安が深くなる。 「本当にどこへ行ったのかな」 「お友だちのところにでも行ったんじゃないの。ひとことくらい言ってから行けばいいのにねえ」 「しかし、転校して来たばかりだろ。友だちなんか、まだいないんじゃないのか」  夏休み中に引越して来た。啓介は今の小学校へ通い始めてまだ二週間しかたっていない。 「子どもなんて、すぐ仲よくなるんじゃないの。いいお友だちができそうだから、なかなか帰って来れなくて」  それはおおいにありうることだ。 「草色のブラウスを着て、青いベルトをしめて、焦茶色のスラックスをはいた女、知らんか」  と、文雄は春子に尋ねた。 「なに、それ? 知らないわ」  色彩はきれいだが、ちょっとはですぎる。狂気の色あいではあるまいか。夢の中でも異様だった。  それが草原の中を逃げて行き、啓介があとを追いかけて行った。 「知らなきゃ、いいんだ」  蝉《せみ》が鳴いている。  風鈴が時折揺れて、やさしい音を放つ。  啓介が帰って来たのは四時に近かったろう。 「ただいま」  疲れきった様子でいる。目の奥に微妙な興奮が残っているようにも見えた。 「どこへ行ってた? 昼めしも食わずに」  春子は夕飯の買物に出かけて留守だった。 「お父さん……」 「なんだ」 「すごいとんぼがいるね」  啓介は両手の人差し指で十センチほどの長さを作ってつぶやく。それがとんぼの大きさなのだろう。 「どんなとんぼ?」 「見たことないやつ。胴体が緑と青で、しっぽが焦茶色で」  文雄は�あっ�と思った。 「銀やんまだろう」 「そう言うの?」 「そうだ」  めっきり見なくなった。啓介は本当に見たことがないかもしれない。見なければ、名前も知らないだろう。 「それを追いかけて行ったのか」 「うん」 「ずっと?」 「うん。つかまえられそうだったから。いなくなったと思ったら、またすぐ来るんだ」 「ふーん」  文雄は、わけもなく、  ——村瀬昌子は死んだな——  と思った。とんぼに身を変えて、そのことを伝えに来て……。これも三文小説かもしれない。  むしろ、文雄がまどろみに入る、その直前に銀やんまが縁側へ入って来たのかもしれない。おぼろな意識がそれをとらえ、そのまま夢に忍び込んだのだろう。  夢の中で見た色彩は、たしかに銀やんまの色だった。胸が草の色で、腰のあたりが鮮やかなコバルト・ブルーを呈している。しっぽは黒に近い焦茶色だった。  すると……頭のすみで、こぼれ落ちかけている記憶が戻って来た。 「あ、きれい」  村瀬昌子が指をさす。  原っぱの高い草をかすめて、とんぼが飛んでいた。 「銀やんまだ」 「とれないかしら」 「よーし」  自転車で追いかけたが、とんぼはスイと空の高みに逃げて行く。  青い、青い空が広がっていた。  三十年なんて、すぐにたつ。だから、とんぼを追いかけているうちに、文雄は少年に戻るかもしれない。  ——こいつ、俺に似て来たな——  啓介を見ていると、文雄は、今とんぼを追って行ったのが自分自身であるような、そんな不思議な意識を覚えた。 [#改ページ]   第十話 めぐりあい 「あなた、起きて。もうギリギリよ」  季子《としこ》に声をかけられ、枕もとの時計を見ると、七時を八分過ぎている。目ざましをかけておいたはずだが、手ちがいがあったらしい。 「うん」  弘之は、のっそりと起きて頭をトントンと叩いた。 「直也は?」  と尋ねると、 「お父さん、何時に行くの?」  四年生の直也は鞄《かばん》を持って立っている。 「七時四十分……かな」 「間にあう?」 「大丈夫だ。急いで用意するから」  ゴルフ用のシャツを着てセーターをかぶった。 「直ちゃん、トイレは」 「うん、行く」 「歌でも歌って来い」 「どうして?」 「気分がほぐれるから」  トイレットは洗面所のすぐ隣にある。弘之が顔を洗っていると、直也の歌声が聞こえる。  弘之には思い出すことがある。  二十年以上も昔のこと……。弘之は田舎から上京して高等学校の試験を受けた。叔父の家に泊めてもらった。 「弘之さんはきっと入るわ」  叔母がそう言っていた。  その理由は、試験に出かける朝、トイレットの中で威勢のいい歌を大声で歌っていたから……。弘之自身は覚えていなかったが、なにかしら自分を鼓舞しようと、そんな意識があったのだろう。叔母の予想通り試験には無事に合格した。  わが子にも同じことをさせた。げんを担《かつ》ぐ気持が働く。 「よし、行くぞ」 「あなた、御飯は?」  妻が尋ねたが、 「いや、いい。むこうでなんか食う」 「開いているかしら、食堂?」 「なんかあるだろ。遅れちゃまずい」  トイレットから出て来た直也と一緒に家を出た。日曜日の朝は、駅まで行く道も閑散としている。 「会員になれるかなあ」  直也が下から父を見あげる。 「気楽にやれ。できなくたって、どうってこと、ないさ」  人生は長いんだから……。  今日はベスト塾の受験日。弘之はこまかいことまでは知らないけれど、ベスト塾は都内で最大の受験塾である。有名中学校の合格率も高い。  小学四年生の二学期が終る頃、この塾の会員選抜の試験がおこなわれる。まずこれに合格してベスト塾の会員になることが受験戦争の第一歩である。 「なにも小学生のときから受験勉強をさせること、ないだろう」  弘之は否定的だったが、季子のほうが、 「そんな暢気《のんき》なこと言ってちゃ駄目。区立の中学がよくないから、ここでひとふんばりさせておいたほうがいいのよ」  と主張する。直也を呼んで、 「どうだ、やるか」  と聞けば、 「うん。やりたい」  と答えた。勉強のきらいな子ではない。 「じゃあ、やってみろ」  当人がゲームでもやるような気分で挑戦するのなら、弊害も少なかろう。  試験場には白山のS大学が割り当てられた。戸越の家から地下鉄を乗り継いで行く。直也の知らない道筋だ。 「あなた、連れてってよ」  季子に頼まれ、 「日曜日の朝か」 「ゴルフに行くときはちゃんと起きるじゃない。私が行くとなると、用意が大変だし……お願い」 「わかった」  と承知した。  募集人員の三倍くらいの受験者が集まるらしい。なかなかの難関である。季子の観測では、 「直ちゃんは六・四で、会員になれるんじゃないかしら」  ということだった。  電車の中で直也は漫画雑誌を読んでいる。表情は子どもそのものだ。  ——かわいそうだな——  しかし、男はどこかで戦わなくてはいけない。直也はよく育っている。勉強のきらいでない子にとっては、この戦いはまだましなほうかもしれない。  集合時間の十分前にキャンパスに着いた。 「じゃあな」 「うん」  直也を教室に送り込み、弘之は校庭に出た。父兄のための待合室が用意されていたが、そう広くはないし、中は教育ママばかりみたいな様子である。  男のつきそい自体がめずらしい。  ——まあ、あそこは、お父様がつきそいにいらして——  好奇の眼で見られているような気がする。居ごこちがよくない。腹がすいていた。表通りのほうに出れば、コーヒー店のモーニング・サービスくらいはあるだろう。  校門のほうに向かいかけると、脇道のほうからヒョイと出て来た女と眼があった。避けようもない。 「あら」 「やあ」  どちらかが先に見つけたのなら、そっと姿を隠したのではあるまいか。 「お久しぶりですね」  花恵は眼を細め、まぶしそうな表情で笑った。  ——少し老けたかな——  弘之はそう思い、そう思いながらも、  ——いや、ほとんど変っていない——  と、矛盾した考えが頭の中をかけ抜ける。いろいろなことがいっせいに心に浮かぶ。  ——六年ぶり。あの頃、直也はまだ幼かった。花恵にも同じ年齢の娘がいたんだ。たしか理恵ちゃん。だったら、花恵がここにいてもおかしくはない——  校門から外に向かう道を歩きながら、 「受験? こんなところで会うとは思わなかったな」  と呟いた。  花恵の記憶はまだ頭のあちこちにたくさん残っている。学生時代に知りあい、いっときは正真正銘の恋人同士だった。  それが別れるようになった理由はなんだったろう。よくわからない。とてもひとことでは言えない。説明がむつかしい。煎《せん》じ詰めれば縁がなかったから……。おたがいに短い恋の相手としてなら、そこそこにチャーミングであったけれど、一生の伴侶《はんりよ》としてはあやういものを感じていたのではあるまいか。  花恵は奔放な女である。気分屋さんだ。大切なのは、そのとき、そのときの自分の感情……。好きなものは好き。厭なときは厭。理性よりも感情が先に立つ。  別れをほのめかしたのは花恵のほうだった。 「もうやめましょ。なんだか疲れちゃった」 「そうかな。いいよ、俺は」  追いかけて行っても、それを見てとどまってくれるような女ではない。多少の曲折はあったけれど、見かけはあっさりと別れがきまった。間もなく花恵の結婚の噂を聞き、弘之も少し遅れて妻を迎えた。  だが、間もなく再会。銀座で信号を待っているときだった。 「よく似てると思ったら」 「当人ですもの」 「元気そうだね」  まるであらかじめ約束されていたことのようにたやすく親しくなった。花恵は自分のほうから別れを言い出したのを忘れたみたいに、 「あなたがいけないのよ」  と弘之を詰《なじ》りながら抱かれた。  なつかしい体だった。でも昔と少しちがう。微妙な変化がひどく卑猥なものに感じられた。  花恵は妻となり、一児の母になっていたが、本質は少しも変っていない。見かけは少しまともになっていたけれど、やっぱり感情の人である。情事は楽しいが、疲れることは疲れる。  今度は弘之のほうも慣れている。と言うより、以前のように重い関係ではないと、そうわりきっていたからかもしれない。危険ではあるが、ただの火遊びだ。深刻に考えることもない。厭ならば、そのときに別れればいい……。花恵もそれを望んでいる。花恵にはそんな関係がふさわしい。  不倫の関係は二年ほど続いた。  別れは前のときと同じように簡単だった。言いだしたのも花恵のほうだったし、台詞《せりふ》も似ていた。 「疲れちゃった」と……。  今度はもう会うまいと思った。理由はないが、なんとなく……。  関係がなくなってしまえば花恵は年賀状一つ寄こさない。どこで暮らしているのか、昔の住所でないならば、弘之はそれも知らない。  ところが思いがけないところで、まためぐりあってしまった。 「お茶でも飲もうか」  どうせ子どもたちのテストが終るまで二時間あまり待っていなければいけない。 「そうね。どこかあるかしら」 「表通りに出ればコーヒー屋くらいあるだろ」 「ええ……。ひどい恰好でしょ。寝起きなの。起きてすぐ出て来たのよ」  花恵は手に車のキーを握っている。朝、起きて、そのまま子どもを車に乗せて連れて来たのだろう。ほとんど化粧もしていない。髪を束《たば》ねているだけ。 「いったん帰るつもりだったのか」 「そう。四谷だから。住所、連絡してなかったわね」 「ああ。ここでいいだろ」  表通りを少し歩いてレストランを見つけた。 「朝御飯、まだなの」 「俺もまだだ」  二人そろってトーストを頼んだ。 「理恵ちゃんも四年生か」 「そりゃそうでしょ。同い年ですもの」 「一流校を狙っているわけだ」 「そうでもないわよ。四谷って、まん中でしょ。公立中学があんまりよくないみたい。いい子がみんな私立に行ってしまって……。おたくこそ一流校を狙ってんじゃない? 男の子だし」 「様子を見に来ただけだ」 「でも、受けてんでしょ?」 「受けてるけど、どうなるか、わからん」 「教育ママばっかりで……気おくれを感じていたの」  花恵はタバコを取り出して笑う。 「男は少ないから、俺も居ごこちがよくない」 「おたがいにミス・キャストね、本日は」  男と女の関係なんて、本当は取るにも足りないことなのかもしれない。お天気の挨拶《あいさつ》くらいのもの。会って握手を交わすくらいのこと……。深刻に考えれば、いくらでも深刻になるけれど、軽く考えれば軽くもなる。花恵とならば「どう、これから」と、ホテルに誘っても、それほど違和感はあるまい。もっとも花恵は応じまいけれど……。モラルの問題ではなく、彼女の感情が今はそちらの方角に向いていないから。 「おかしいな、こんなところで会うのは」 「そう。まだしもホテルの廊下あたりでバッタリ会うほうが似つかわしいんじゃない」  もしかしたら結婚していたかもしれない相手である。そうなれば直也はこの世にいないし、理恵ちゃんもいない。  六年前に再会したときは、季子と別れて花恵と一緒になることを……ほんの少しではあったけれど、頭の片すみで考えたりもした。そして、わけもなく同じ家に直也と理恵ちゃんと、同い年の姉弟《きようだい》のいる姿を想像した。 「大丈夫かな、やつら?」  弘之があごでキャンパスの方角を指す。 「おできになるんでしょ、おたくは?」  花恵は直也の名前も覚えていないだろう。 「いや、そうでもない。ただ……できるとかできないとかじゃなく、俺たちがこんなところで顔をあわせているのは、よくないな。神様が�不謹慎である�なんて怒って、いじわるをするかもしれない」  弘之は笑いながら告げた。  今の心理を伝えるのはむつかしい。少なくとも二人は格別わるいことをしているわけではない。偶然会ってコーヒーを飲んで……神様に叱られるほどのことではない。だが、子どもたちが必死に算数や国語の問題を解いている姿を思うと、微妙なうしろめたさを覚えてしまう。  花恵もそんな気分は同じなのだろう。  笑いながらうなずき、 「神様を信じているの?」  と聞く。 「いや、信仰はないよ。昔っから……。しかし、なんかこう、天の意志みたいなものを感ずるとき、あるだろ。わるいことしてると報《むく》いがあるような」 「それは感ずるわね。でも、神様って、そう単純じゃないわ。茶目っ気もあるし、なに考えてるのかわからないくらい、いい加減だし……。でなきゃ、今日こんなところであなたと会わせたりしないわ」 「まったくだ」  二杯目のコーヒーを注文し、近況を語りあった。  花恵の夫はコンピュータ関係の技師で、昨今はとてもいそがしいようだ。花恵もこのごろはパソコンをいじっているとか……。 「意外とおもしろいわよ。いろんなゲームがあるの」 「やるのか」 「ううん。私はワープロだけ。でも、いろんなプログラムがあって、私たち、それに操られているだけみたいよ。人生だって、そんなものじゃない」 「まあな」  花恵と弘之のプログラムはどうなっているのか。おそらくめぐりあいは二度まで。それでおしまい……。 「ぼつぼつ時間かな」 「そうね」  伝票を取って立ちあがった。  大学のキャンパスに着くのと、子どもたちが試験場から出て来たのが一緒だった。  そこで別れた。  花恵が理恵ちゃんを迎えている。母親の笑顔で。それなりのキャストを演じている。  子どもたちのプログラムが……受験戦争の第一歩がきまるのは、明日の午後である。 [#改ページ]   第十一話 野沢菜 「寒いな」  清志が起きて来たのは正午に近かった。 「雨よ」 「わかってる」  いかにも冷たそうな雨が落ちている。マンションの窓からは近所の公園がよく見える。  公園と言っても、さほどの大きさではない。むしろ空地と呼んだほうがいいくらい。青葉の季節はまだしも見られるが、木の枝がすっかり葉を落としてしまうと、ひどくみすぼらしい。ブランコが二台、砂場が一つ。砂場には色のはげたライオンがうずくまっている。眺めているうちに、余計に寒くなってしまう。 「また冬か」  清志が電気炬燵に足を入れた。 「そうね」  照子がテレビに顔を向けたまま答えた。 「子どもたちは?」 「武志はサッカーの練習。美津子は誕生会」 「ふーん。めしは?」 「食べるの?」 「そりゃ、食べるさ」 「私はすんじゃったわよ、当然。もうお昼御飯の時間だけど」 「昼くらい食うんだろ、おまえだって」 「どうする? パンがいい? それともお茶漬け?」 「パン」 「コーヒーと目玉焼きくらいしかないわよ」 「それでいい」  照子が肩をまるめてキッチンに立つ。  だが、すぐに戻って来て、 「コーヒー、ないみたい。紅茶でいい?」  と尋ねた。 「コーヒーまでないのか」  清志がそう言ったのは、昨夜、玄関の電灯が切れたままになっていたから……。門口が暗いのは貧乏くさくていけない。文句を言うと、照子の返事は「買い置きがないのよ」である。 「スーパーで売っているだろ、電球くらい」 「わが家はピンチなの」  月給日の直前、まさか電球一つも買えないほどひどい状態ではあるまいけれど、主婦としては心理的に買い控えをしたいときもあるのだろう。インスタント・コーヒーも、そのくちらしい。 「お財布カラッポよ」 「まったくだ。俺もない」 「あら、少し借りようと思っていたのに」 「冗談じゃない。明日の昼めし代も危ない」 「ゴルフは?」  近所に練習場がある。日曜日にはほとんど欠かさずに行っている。 「無理だよ。少し貸せよ。な、まるっきりなしってことないだろ、わが家の大蔵省に」 「残念でした。それが本当にまるっきりないの。今晩のおかず代だってないんだから。最後に残しておいたのを武志が持ってっちゃった。ユニフォーム代だとか言って……」 「絶望的な情況だな。雨でよかった」 「そう。なまじ晴れてると、くやしいじゃない」  パンと紅茶と目玉焼き。バターは……ある。  照子は到来物の野沢菜を切り、どんぶりに盛りあげ、お茶漬けの仕度をする。 「それがあったのか」  と、野沢菜を顎で指した。 「ええ?」 「そっちのほうがよかったかな」  似たような菜っぱの漬け物でも、みんな味がちがっている。これはなかなかうまい。 「でも、これは昼御飯のメニューですもん。あとで食べるんでしょ」 「メニューってほどのもんじゃないな」  新聞を読みながらトーストを頬張った。  テレビ欄を見たが、ろくな番組がない。七つもチャンネルがあるというのに、一つくらい鑑賞にたえるものを映してくれまいか。 「俺にも、お茶」 「待って。新しくいれるから」 「お茶はあるのか」 「まあ、なんとかね」  野沢菜をつまみ、お茶をすする。照子もお茶をすすりながら野沢菜をつまむ。  ポリポリポリ、ポリポリポリ……。  そのうちに清志が炬燵のわきに置いてある小倉百人一首の箱に目を止め、 「こんなもの、やるのか」  と、引き寄せる。 「美津子が言うもんだから、押入れのすみから出したの」 「よくあったなあ」 「やった?」 「昔はね。正月が近づくと、トランプとか、これとか……ほかに遊びなかったもん」 「一つあれば、結構みんなで楽しめたから」 「このごろの遊びはみんな高くつく」 「本当。このあいだミエちゃんとデパートへ行って、男の子に�なんか買ってあげましょ�って言ったら�ゲームがほしい�って……。大きな箱のゲームで六千円もするのよ」 「なんでそんな高いもの買ってやるんだ。ミエちゃんから、うちの子どもたち、なんか買ってもらったことあるかよ」  ミエちゃんというのは、照子の従妹である。家が近いので、顔をあわせることが多い。 「せいぜい百円のガムくらいじゃない」 「そうだろ。あれで意外とけちなんだから、ミエちゃんは」 「意外となんてものじゃないわよ。鼻のわきを見ればすぐにわかるじゃない。欲張り筋がはっきり出ているじゃない」 「欲張り筋って言うのか」  清志が鼻のわきをさすりながら言った。  たしかに鼻の両わきに太いしわが凹むと、ひどく欲張りそうに見えるものだ。 「そうよ、あそこは代々ひどいの。�わるいわねえ�なんて言ってるけど、心の中じゃ、ちっともわるいと思ってないのよ。わざとデパートなんかへ行って高いものを買わせるのね、子どものために」 「知能犯だな」 「計画的なんだから」  百人一首の札を一枚取って、 「足びきの山鳥の尾のしだり尾の……。若い女の子がふり袖なんか着て、キャッキャッやってんのは、いい景色だった」 「田端の叔父さんがさァ、それが好きなのよ。お姉ちゃんとか私のお友だちがお正月に遊びに来ると、�どれ、百人一首でもやるかね� すぐに出て来るの」 「そんなに百人一首が好きなのか」 「ううん、そうじゃない。女の子が好きなの」 「なるほど」 「あれ、なんて言うの。はじめに読み手が一枚、適当に歌を読むじゃない」 「から札か。調子をみるんじゃないのか」 「叔父さんが読み手になると、なんだかへんな歌を読むのよ。上の句は忘れちゃったけど、ゴビの砂漠に月宿るらんとかなんとか、自分で作った歌なんですって。行ったこともないくせに」 「ゴビの砂漠とはすごいね」 「そうよ」 「老人ホームのほうはどうなのかな」 「いいんじゃない。あい変らず女の人のお尻を追いかけまわしてるんじゃないの。ゴビの砂漠でも歌いながら」 「このあいだ会ったときなんか、入れ歯がガタガタしてたぞ」 「だから口をすぼめて、しゃべらないようにしているわよ。あなたの前だから油断してガタガタさせちゃったんじゃない。相手がちょっとましなおばあさんだったりしたら、すぐに見栄を張るんだから」  野沢菜のどんぶりがからになった。 「これ、もう少し切って出せよ」 「あなたも好きね」 「おいしいよ。ほかにおやつもないだろうし」 「そうね」  テレビ・ドラマを見ながら何杯目かのお茶をすすった。ポットのお湯も残り少ない。 「この人、秀ちゃんに似ていないか」  照子がさっきより大盛りにして戻って来た。大映しになったヒロインを指さして清志が呟く。 「秀ちゃんて、江古田の?」 「ああ」 「こんないい女じゃないわよ。わるいわ、この人に」 「顔のタイプとして……」 「タイプとかなんとかいうほどの顔じゃないでしょ、秀ちゃんは。タヌアカって言われてたのよ」 「なんだ」 「タヌキのアカンベエ。私、タヌキのアカンベエなんか見たことないけど、なんとなくそんな感じじゃない。たしかに目は大きいけど、右左でちょっと位置がずれてるみたいで」 「俺だって、タヌキのアカンベエなんか知らん」 「だれも知らないわね」 「結婚しないのか、彼女」 「無理なんじゃない。だれかいる、会社に?」 「ウーン、水島さん」 「水島さんて、あなたと同い年でしょ」 「ああ。むこうのほうが一つ上かな」 「秀ちゃんといくつちがう? 十以上ちがうじゃない。完全なおじさんじゃない」 「タヌアカなら……」 「まあね。ずーっとお一人なの、水島さん」 「そうだよ。洗濯も掃除も料理も、みんな上手らしいよ。�俺んとこに来る女房は楽だ�って、十年以上も言い続けてるけど、肝腎な奥さんがいっこうにやって来ない」 「家事ができればいいってもんじゃないからねえ」 「かえって、できないほうがいいんじゃないのか」 「あなたみたいにまるでやらないのもひどいけど」 「水島さんはともかく、だれかいないかな」 「後妻でもいいから、もう少しましな人……」 「後妻って言えば、部長のとこ、大変らしいよ」  キッチンのほうで、やかんがピイピイと音をたてている。照子が立ってポットにお湯を入れた。手を布巾で拭いながら、 「あら、奥さんの三回忌がすんだら、再婚なさるはずじゃなかったの」 「その予定らしかったんだけど」 「まずいの」 「娘たちが反対しているらしいんだ」 「二人いらしたのよね。どちらもおきれいで、ご自慢のお嬢さんだったんじゃないの」 「うん。部長もまさか娘たちが反対するとは思っていなかったらしい。二人とも結婚して家を離れているんだし、部長があの年で独り暮らしはつらいだろうって、むしろ喜んで賛成してくれると思ってたらしいんだ」 「変な人なのかしら、再婚の相手が」 「娘たちはそういう言い方をするらしいけど、本当はちがうね」 「どうなの?」 「つまり……財産の分配について、娘たち二人で相談がもうできてるんだと」 「どういうこと」 「部長の財産は大変なもんだよ。世田谷の屋敷だけでもすごい。ほかに貸しマンションなんかもあるらしい……。部長が死んだあと二人でどう分けるか、がっちり相談のできているところに、自分たちとそう年の変らない後妻が来ちゃったら、予定が狂っちゃうだろ。大問題だよ、娘たちにとっちゃ。そこで、あれやこれやと難くせをつけ始めた」 「そんな感じの娘さんたちじゃなかったのに。前にお花見のときにお会いしたでしょ。おっとりとした感じで」 「あの頃はそうだったんだろ。今はサラリーマンの奥さんになって�月給日の前はつらいわ�とか�土地つきの家、ほしいわ�とか言ってんだよ。そうそうおっとりとかまえていられない」 「部長さんもお気の毒ねえ」 「まあな。間もなく子会社行きだろうしな」 「あ、そうなの?」 「そうだよ。もともと能力のある人じゃないもの。わが社の七不思議の一つなんだ。どうして役員になれたかって……」 「信子さんのご主人もそうみたいよ」  信子さんというのは美津子の友だちの母親である。なかなかの美人。 「ああ、そうなのか」 「でも、彼女が社長の愛人だから」 「本当かよ」 「当人がそう言うんですもの。だから亭主が出世したって」 「どういう会社なんだ。ろくな会社じゃないな」 「男の人って、信子さんみたいなタイプ好きなんじゃない」 「そうかなあ」 「そうよ。和服が似あって、おしとやかな感じで。でも、意外と淫乱だったりして」 「そうなのか」 「もしかしたらね。でも、彼女、スタイルはひどいわよ。ずん胴で」 「見たのか」 「ええ。プールで。足も短いし、O脚だし」 「それで和服をよく着るのか」 「そう。高いものばっかり」 「こっちは銭がないのになあ」 「本当よ」  どんぶりの野沢菜は、もうあらかたなくなっている。  ポリポリポリ、ポリポリポリ……。  とめどなく食べる。とめどなく他人の悪口が続く。月給日前……。これはこれで楽しいゲームの一つ。雨はやみそうもない。 [#改ページ]   第十二話 花冷え  オフィスの昼さがり。  三時五分前。  三時ちょうどになったら電話をかけようと、そう思っている矢先に卓上のベルが鳴った。  古河が腕を伸ばして受話器を取り、 「もしもし、営業三課です」  と答えると、 「古河さん……お願いします」  と、耳慣れた声がこぼれる。 「私です」  笑いながら伝えた。 「こんにちは。圭子です」  この人の声はいつも明るく、ここちよい。 「いま、ちょうど君に電話をかけようとしていたところだ」 「本当? なんでしょう」 「いや。しばらく会ってないから」  このまえ会ってから一カ月あまりたっている。一度は圭子の風邪で予定が流れ、そのあとに古河の出張があった。  ——男と女は、どのくらいの頻度で顔をあわせていれば、一番よいのだろうか——  公式があるわけではない。頻度そのものが二人の関係を表わしている。一カ月を越えるインターバルは、古河には少し長過ぎるように思えた。 「そんなになるかしら」 「うん。雪が降ってた」 「大分暖かくなりましたものね」 「会いたいと思って……。なにか用?」 「はい。ちょっとお話したいことがあって」 「うん。なんだろう」 「お目にかかれます?」 「もちろん。急いでいるわけ?」 「できれば、今晩あたり……。勝手を言ってすみません」  圭子は、いまどきの娘にしては言葉遣いが整っている。ほどほどに親しく、ほどほどに礼儀正しい。好ましい特徴の一つである。  ——二十七歳は、もう若い娘ではないか——  言葉遣いが整っていて当然だろう。  むしろ女性の言葉遣いなどに気がまわること自体、古河のほうが年を取った証拠かもしれない。来月の誕生日が来れば、三十九歳になる。四十も近い。ついこのあいだまでは「このごろの若い者は……」と、苦情を言われる側に属していたような気がするのだが、いつのまにかそれを言うほうの立場に入ってしまった。いや、現実問題として、それを言ったことはないけれど、言いたい気分にはよくなる。いまにきっと言いだすにちがいない。 「えーと、大丈夫かな」  と答えて手帳を覗《のぞ》いた。  今日の日付のところに�六時。Tホテル。緑川氏�と記してある。  ——あ、そうか——  明日も、明後日も、夜は日程がつまっている。  ——緑川さんの用件は短いな——  緑川というのは、いまは子会社へ移っているが、古河が入社した頃の上司である。親切に仕事を教えてもらった。きのうの午後に電話があって「スペイン語の書類をちょっと見てくれ」と頼まれた。古河はスペイン語が堪能だから……。はじめてのことではない。いつもTホテルのバーで会って十枚ほどの書類をチェックする。そのあと食事をすることもあったが、きのうの電話では、なにかしら緑川のほうもほかに大切なアポイントメントがあるような話だった。一時間もあれば終るだろう。 「すみません。無理のようでしたら……」  と、圭子の遠慮がちの声が聞こえる。 「平気、平気。六時から人に会って、七時には終る。七時半なら確実だ。そのくらいの時間でもいいのかな」 「はい」 「じゃあ、なにか食べよう」 「よろしいんですか」 「おいしいものが食べたい」 「うれしい」 「なんにしよう?」 「なんでも」 「そうだな。中華にしようか」 「めずらしいわ」 「厭?」 「ううん。好きです。でも、いつも和食なんかが多いから」  古河はカウンター割烹《かつぽう》のような店が好きなのだが、折り入った話を交わすにはこの手の店は向かない。 「ゆっくり話すには、テーブルのほうがいいだろ。Tホテルの別館、わかる?」 「はい」  そこの中華料理店で会うことを約束して電話を切った。  ——なんだろう——  受話器を置いて考えた。  よい話だろうか、わるい話だろうか。大切な話であるような、そんな口ぶりだった。  サラリーマンの生活なんて、毎日毎日、ほとんど変化がない。来る日も来る日も同じようなパターンをくり返している。少なくともここ数年はずっとそうだった。  ——昔はもう少しちがったかな——  古河は二十八のときに結婚をした。職場結婚だった。一応は恋愛のうちだろう。あのときは毎日が輝いていた。同じ色あいではなかった。  結婚を機に妻が退職し、二年ほど福岡へ転勤して新婚の日々を送った。福岡は……町のまん中に川が流れ、ネオンが水に映って揺れていた。あの頃を思うときは、いつもそんな夜景が心にのぼって来る。  あとで考えてみると、妻の体はすでに蝕《むしば》まれていたのだろう。東京へ戻ってからだ。オフィスの電話が鳴り、 「ちょっと病院へ行きます」  と、妻の声が聞こえた。 「へえー、どこかわるいのか」  一瞬、妊娠のことを考えたのだから、愚かだった。 「言ったでしょう」  仕事が忙しく、夜遅く帰宅することが多かった。ろくな会話を交わしていない。妻が話していても、ちゃんと聞いていない。風邪くらいだろうと思っていた。 「調子がわるいんなら、ちゃんと診てもらったほうがいい」 「ええ」  夕刻もう一度電話がかかって来たときには、 「入院することになったの」 「えっ? どうして」 「とりあえず検査ですって。大丈夫と思うけど」 「うん。心配するなよ。帰りに寄る」 「そうして。遅くなるのかしら」 「いや、そんなに遅くない」 「待ってるわ」  声がやけにさびしそうに聞こえた。妻には、なにかしら自分の病状について感ずるものがあったのかもしれない。  それからは信じられないことばかりが続いた。妻の肝臓は、手術もできないほど手ひどく病いに冒されていた。せめて苦しみの期間の短かったことがさいわいだったろう。七カ月入院して妻は死んだ。 「福岡の頃が……」  と、ほとんど聞きとれないほどかすかな言葉で囁《ささや》き、それが最後だった。「……楽しかった」と続くはずだったろう。  以来、古河はずっと一人暮らしを続けている。 「再婚はどうかね」  いろいろな人に何度も勧められた。 「はあ、そのうちに」  いつも同じように答えて来た。  しかし、答える側の心理は微妙に変っている。当初は死んだ妻への思いが残っていた。愛情とは少しちがう。三年ほどの歳月を親しく過ごしたという、その気配がいろいろなところに潜んでいる。たとえば、夜一人でテレビを見ているとき……。障子が開き「カステラ食べる?」と、いまにも声が響いてきそうに感ずる。カステラは妻の好物だった。同じメーカーのものでも、長崎の本店で売っているものが絶対にうまいと主張して譲らなかった。 「おきゅうとの�お�って敬語かしら」  と、これも実際に妻に聞かれたことだ。おきゅうとは福岡の食べ物だ。ほかの地方ではほとんど見たことがない。鈍い緑色の、ところてんのような食べ物……。酢醤油《すじようゆ》につけてつるつると食べる。格別うまいものとは思わないけれど、福岡の人は好んで食べる。  新婚の頃は、たわいのないことをやって遊んだ。遊びのたわいのなさが楽しかった。 「しりとり、知ってる?」 「知らんやつ、いないだろ、日本人なら」 「やろう」  と妻が子どもみたいに誘う。  古河が�はつがつお�と言い、そこで飛び出したのが�おきゅうと�だったのだ。しりとり遊びでは、敬語の�お�はルール違反となる。これを除くと頭に�お�のつく言葉は思いのほか少ない。 「おきゅうとは、きゅうとに�お�がついたわけじゃないだろ」 「じゃあ、おきゅうと」  こんな思い出が身近に漂っているうちは、新しい妻を迎えてはならないと古河は思った。  そのうちに面倒になる。  ——せっかく一人になったのに、なにも再婚することもないか——  慣れてしまえば気軽なものだ。  はじめからずっと一人というわけではない。一度は結婚をした。やることは一応やった。新婚の甘い蜜もそれなりに味わったことだし、男と女が一緒に暮らすわずらわしさも少しわかった。それに、昔はいざ知らず、昨今は男の一人暮らしはけっして不自由ではない。近所のスーパーマーケットへ行けば、たいていのことは間にあう。 「あっちの欲望は、どうするのかね」  これも仲間たちによく聞かれた。結婚にはもう一つ、大切な要素がある。 「妻帯者よりかえって豊富なんじゃないすか」  と、答えた。  なかばジョーク。なかば本気。独り身であればこそ、どこでどんな遊びをやったところで咎《とが》められる理由はない。  しかし、圭子を知って少し変った。  人間の心なんて勝手なものである。よい対象が現われれば、  ——いつまでも一人でいることもないか——  と、たちまち変ってしまう。  圭子と知りあったきっかけは、スペイン語用のポータブル・タイプライターを買ったから。男女の縁なんて、どこに転がってるかわからない。圭子はそういう事務器を扱う専門店の売り子だった。 「スペイン語、うまいんですね」  たまたまスペイン人と一緒だった。 「それほどでもない」 「私、習おうかしら」 「教えましょうか」 「本当に?」  スペイン語は教えなかったが、スペイン美術展を一緒に見に行った。それがきっかけで少しずつ親しくなった。  はじめに関心を持った理由は、やはり容姿の美しさだったろう。美しいと言うより、古河の好みにあっていた。  色が浅黒い。 「地黒なの。子どものときから……。クロちゃんてよく言われたわ」  小麦色の健康色で、肌に弾力が感じられる。そして、その肌の黒さが瞳の黒さとよくマッチしている。髪も黒い。そう、ちょっとスペイン風……。鮮やかな緑色のワンピースなどを着ていると、とてもよく似合う。  そして、圭子は話がおもしろい。特におしゃべりではないし、おかしいことをたくさん言うわけでもないのだが、話が終らない。  奇妙なたとえかもしれないが、若い女性の中には、袋小路みたいな話しかできない人が多い。 「きのう、銀座でイタリア料理を食べたの」 「どうだった?」 「おいしかった」  聞き耳を立てていても、話はそこで終ってしまい、あとが続かない。続いたとしても、同じ中身をくり返しているだけ。なんの発展もない。古河に言わせれば、これが袋小路みたいな話ということになる。  圭子は短い沈黙のあとでポツリと呟く。 「セピア色って、どんな色ですか」 「古い写真の色なんか言うんじゃない。少し茶色味を帯びた黒」  烏賊墨のスパゲティはイタリア料理の代表的なメニューである。セピアは、その烏賊墨《いかすみ》のことだ。圭子の頭の中にそんな連想があって、セピア色の質問が出て来たのだろう。 「でも、烏賊墨のスパゲティって、まっ黒になるわ、歯なんかが。古い写真の色とは、ちょっとちがうみたい」 「うーん。しかし、烏賊の墨ってのは、薄めると、少し茶色っぽいんじゃないのかな」  少し話が途絶え、つぎには、 「テレビの時代劇って、お歯黒にしている奥さん、いませんね」  スパゲティから江戸の風俗へと飛ぶ。 「女優が厭がるのかな」 「老けちゃいますものね」 「ちょっと色っぽい」 「そうですかあ。ああいうの、好みなんですか」  つまり年齢のわりには知識が広い。頭の中にさまざまな連想が駈けめぐっているのだろう。それがピョコン、ピョコンと飛び出して来る。なぜさっきの話とこの話とが繋っているのか、聞き手のほうにも知識がないとわからないときがある。イマジネーションを働かせないと、楽しめないことがある。そのかわり、連想の仕組みがよくわかったときには、 「ねっ?」 「ああ」  頷《うなず》きあうような喜びがふっと流れる。  ——そんなもの、ちっとも楽しくないよ——  という男もいるだろう。  たまたま古河がそれを好んだのかもしれない。  とはいえ、こうしたことは語り手の個性にかかわるものだろう。同じことをほかの女がやっても、それほど古河は楽しめないかもしれない。そんな話し方が圭子によく似合っていて、しかも、それが古河の好みであったということ、男女の親しさは結局のところ、性があうかあわないか、それだけのことなのかもしれない。  ——今夜七時半に会うとして……いい話かなあ——  古河の連想もとりとめもなく飛んで行く。  ——高等学校で習ったなあ——  英語の教師の話だった。この教師は寝相がよほどわるいのか、いつもうしろ髪がピンと立っていた。 「形容詞ってのは�よい�か�わるい�か、どっちかの意味だ。とりあえず、どっちかに見当をつけて訳してみればいい。それをまちがえるようじゃ、ゼロ点だ。あははは」  英文を読んでいて、わからない単語に出くわしたときの対策である。形容詞らしいとわかったら、その先は�よい�か�わるい�かどちらかだと思えば、当たらずとも遠からず。�美しい��おいしい��明るい��親しい��現代的だ�みんなよい意味である。�みにくい��まずい��暗い��こわい��古くさい�こっちはわるい意味である。どっちとも決められないケースもあるけれど、たいていはどちらかに分けられる。大意を掴《つか》むのにはこれでいい。  ——人生もそうかな——  よいこととわるいことと、おおむね二つに分けられるのではあるまいか。古河は電話をとる一瞬にもよくそんなことを考える。通勤電車の中でも、  ——今日は、よいとわるいと、どっちの一日になるかな——  と思う。  人間関係についても、  ——こいつは俺にとって、よいやつなのか、わるいやつなのか——  分類して考えてみたりする。  死んだ妻はどっちだったのか。  職場には口のわるい男がいて、 「若くて死んだ女房ってのは、みんないい奥さんなんじゃないのか」  と、大胆な意見を吐く。  ——それはそうかもしれない——  子どもさえ残して逝かなければ……。  こんな連想のあとで、わけもなく圭子の言葉を思い出した。 「生き別れはいいけど、死に別れはよせって、そう言いますよね」  まだ知りあって間もない頃だったろう。あの頃だったから、圭子もこんな台詞が屈託もなく言えたのではあるまいか。  言葉の意味は……そう、離婚した男に嫁ぐのはいいけれど、妻と死別した男はよせということ。死者というものは時間の経過につれ、よい思い出だけが濃くなっていく。そのあたりに死者の特権があるらしい。 「死んだ人と比較されちゃあ、かなわんてわけか」 「そうなんじゃないんですか」 「うーん」 「器量だって、むこうは年を取らないし」 「そりゃそうだ」  圭子と結婚しようなんて、いささかも考えていなかったから、気軽にあんな会話が交わせたのだろう。いまは少しむつかしい。  五時四十分に仕事を終え、机の上を片づけてから、 「お先に」  と、オフィスを出た。  Tホテルへは公園を抜けて行く。白い花が咲いている。多分、桜……。  そのわりには寒い。横断歩道を急いで渡ってTホテルへ入った。 「やあ、久しぶり」  緑川は先に来て待っていた。 「ご無沙汰しております」 「元気そうだね」 「まあ、なんとか」 「奥さんは、まだかね」 「もう少し独身を楽しんで」 「もう充分だろう。なにを飲む」 「ビールでも」 「ビール、頼む」  緑川はボーイに声をかけながら鞄から書類を抜いてさし出す。 「七時頃まででよろしいですか」  書類の分量を確かめながら古河は念を押した。 「ああ、いいよ。私も用があるから。めしはこのつぎにでもゆっくり食おう」 「ええ。これは……」 「私信なんだけどね。君に一応目を通してもらったほうが安心だから」 「私だって、こまかいことはわかりません。文法的にまちがっているかどうか、そのくらいのチェックですよ」 「いや、いや、君のスペイン語は、ものすごくうまいって、評判だよ」 「そんなことありません。赤を入れて、いいんですか」  書類はタイプライターできれいに打ってある。 「遠慮なくどんどん」  おおむねよくできている。ただ硬すぎる表現がいくつかある。ところどころを赤いボールペンでなおした。  会社でも古河のスペイン語には定評がある。大学で専攻し、スペイン本国へ二年ほど行って遊び暮らした。妻が死んだあと、また勉強をやりなおした。スペイン語のために費した時間は長い。 「よく書けてるんじゃないですか」  チェックには五分とかからなかった。 「なにか食べるかね。サーモンとか」 「いえ、このあと食事の予定があるものですから」 「あ、そう。いい話かな」 「いや、野暮用です」  と、煙幕を張る。  緑川はビールをグイと喉に流し込んでから、 「サンパウロで、重信君に会ってねえ」  と身を乗り出す。 「はい?」 「君と同期だろ」 「いえ。重信さんのほうが一年先輩でした」  七、八年前に会社を辞めた男である。たしか父親の会社を継ぐような話だった。 「むこうで羽ぶりよくやっているんだ」 「あ、そうですか」  かろうじて顔が思い出せるくらい……。あまり敏腕な社員ではなかった。そんな印象が残っている。 「そうなんだよ。こっちにいたときは、とろくて、なにを考えてんのかわかんなくてねえ。�ありゃ、なんだ�って風当たりが強くて」 「そんなふうでしたね」 「よく泣いてたんだ。男のくせに」 「男でも泣くときは泣くんじゃないですか」  カラオケの歌詞を聞いていると、男はわりとよく泣くものである。圭子がいつかそう言って笑っていた。 「うーん。俺はずいぶんかばってやったんだよ。根はわるいやつじゃないし、どっか見込みがあると感じてたのかなあ」 「緑川さんはやさしいから」  これはお世辞である。当たりはやわらかいが、それほどやさしい人ではない。 「ところがサンパウロじゃ見ちがえるほど、うまくやっててねえ。いろんな連中と繋りがあるんだ」 「水にあったんですかねえ」 「そうなんだろうなあ。もちろん彼自身も成長したんだろうけど」 「そうでしょうね」 「俺が昔、いろいろかばってやったことを忘れずにいてくれてねえ。恩返しのつもりなんだろうなあ。本当に献身的によく気を使ってくれて……。助かったよ。いっぺんに見通しが明るくなった」 「よかったですね」  緑川がサンパウロでどんなビジネスをやっているのか、こまかい事情までは知らない。しかし、発展途上国は人の縁がものを言う。有力者の紹介があれば、ずいぶん無理な商談でも成功するが、つてがなければうまく行きそうな話も最後で頓挫する。緑川はよほどよい思いをしたのだろう。 「あんなふうになるとは思わなかったけどなあ。男の社会ってのは、これがあるから油断できない」 「はい?」 「反対の例が谷田さんよ」 「知りません」  と、古河は首を振った。 「知らんかなあ。ろくでもない部下がいたもんだから、どんどん油を絞ってやったら、十年後、谷田さんがちっちゃな会社の社長になってみると、そのろくでもない野郎が、一番大事なお得意さんの社長になっててさあ。谷田さん、会ったとたんから、ものすごい眼で睨まれて」 「こわい話ですね」 「こわい、こわい。谷田さんも、ちょっとネ、意地わるいところがあるから、昔は、いびったんじゃないの。その仕返しをたっぷりされちゃって……。間もなく谷田さん、社長を辞めたけど、理由の一つはあれじゃなかったのかな」 「ありえますね」 「だからサ、どんなときでも、あんまり阿漕《あこぎ》なことやっちゃいかん。いつ立場が逆転して、こっちが弱い立場に立つかわからん」 「そうですね」 「人生は意外に長いからな。二十年後、三十年後はどうなっているかわからない。男同士は長期市場なんだよ。いまサービスを提供しておくと、ずーっとあとになって、それが返って来たりする。それを当てにしてサービスをしているわけじゃないけど、心のどこかに長期市場的な展望があって、目先のことだけでつきあってるわけじゃない」 「わかります」 「いまに君が偉くなって……」 「いえ、いえ、それはありません」 「ある、ある、期待してるよ」  緑川の腕時計がカチンと小さな音を立てた。七時の合図らしい。 「じゃあ、きょうは、これで、ありがとう」  緑川が時計を見て立ちあがった。 「よろしいんですか、ご馳走になって」 「もちろんだ。こんなものじゃ申し訳ない。またゆっくりと」 「いろいろお話をお聞かせください」 「うん。じゃあ」 「失礼します」  キャッシャーの前で右左に別れた。  圭子と約束した時刻には、まだ少し早い。  このホテルの構造はよく知っている。  中二階のロビイにあがり、ソファに腰をおろして、さんざめく人の群れを眺めおろした。  ——どうするかな——  圭子に対しても、もうぼつぼつ決心を固めなければいけない時期にさしかかっている。  圭子は若い頃にとても親しい男がいて、婚約のような段取りまで行ったらしいが、そこで男が事故死をした。多くは語らないが、結局のところ、それがいつまでも結婚をしないでいる理由だろう。二十七歳になって……もうそろそろ圭子も気持を整理しなければなるまい。  ——男と女はどこで知りあうのかな——  見えない、赤い糸で結ばれているなんて、昔の人は、おもしろい仮説を立てたものだ。本当にそうとでも思わなければ納得のできないような結びつきがたくさんある。このホテルのロビイなんか、今、さかんに赤い糸が乱れ飛んでいるにちがいない。  圭子とは……はじめは本当に軽い関係だった。少なくとも古河のほうには、なんの願望も野心もなかった。あの頃の古河は結婚について一種のモラトリアムのような状態で、いつ決めてもいいが、どこまで延ばしていてもかまわなかった。圭子と知りあい、  ——この人、楽しそうだな——  一緒に食事をしたり、映画を見に行ったりする。一人よりはまちがいなく楽しい。  だが、間もなく、  ——この人、意外とわるくないな——  と気がついた。  古河の気持を説明すれば……あせることはなにもない、よい縁があれば、そのときでよい、知りあえる女の数なんて、本当にたかが知れている、少ない数の中から選ぶのでは、必然性がとぼしくなる。つまり、選んだように見えるけれど、それは当人がそう思っているだけで、ただめぐりあった女と妥協しただけのこと、数学的にはそうなるだろう。  しかし、たった一つ、めぐりあったものが、最高であるというケースも、可能性としては皆無ではない。百人の女性と知りあうとして、まあ、常識的には一番よい人にめぐりあうのは、しばらくたってからだろうけれど、最初の人が一番で、あとの九十九人はそれ以下ということも、あることはある。  人を好きになるというのは、こういうロジックを、感情として納得し、論理としても、  ——そういうめずらしいことが、いま、起きたんだ——  と、合点することだろう。  古河はたしかにその道筋を踏んだ。圭子に会うたびに、  ——これはめっけものだぞ——  新しい魅力を感じた。  急速に親しくならなかったのは、忙しさのせい、年齢のせい、そして簡単には理由の説明できないためらいのせいだったろう。  せちがらい話かもしれないけれど、いつのまにか圭子のためなら、かならずよりよいものを選ぶようになっていた。たとえば、  ——今日はどこで食事をしようかな——  AとBと二つの料理店が心に浮かぶ。その結果、かならずレベルの高いほうを選んでしまう。たとえ懐ぐあいが苦しくても……。  ——CとDと、どちらの贈り物を選ぼうか——  これも少々無理をしても高価なもののほうを選んでしまう。  いつもの背広で会おうかクリーニング店から戻ったのを着ようか、ここで別れようか送って行こうか、タクシーに乗ろうか歩かせようか、こまかいことに至るまで、ほとんど無意識のうちに、圭子のためには、よりよいものへと傾く。好きになるということは、こういう点に如実に表われるものだ。  ——圭子のほうにも同じような心理が働いているのではなかろうか——  それを感じたときは、うれしい。  恋愛とは、おたがいに自分の魅力をあらわにし相手の魅力を引き出し、少しずつ高みへ昇っていく作用なのかもしれない。ほかの人の眼にはどうあろうと、二人の眼の中にそれが確認できることが、恋の実相なのだろう。  圭子と知りあって二年あまり、はじめはゆっくりと、昨今はかなり急速に、そんな坂道を昇って来たような気がする。機が熟しているのかもしれない。  七時二十五分になった。  古河はソファを立って、別館の中華料理店へ向かった。 「いらっしゃいませ」 「二人」  と呟き、ふり返ると、圭子がうしろに立っている。 「いまですか?」 「そう」  奥まった席に案内された。 「なにを食べる」 「適当に選んでください」 「うん」  やはりちょっとよいものを選ぶ。  まずビールを飲んだ。圭子が椅子の背後をさぐり、 「これ」  と、きれいな紙包みをさし出す。 「なんだろう」 「色がきれいだったから」  贈り物らしい。誕生日は……まだ少し先である。 「開けていい?」 「どうぞ」  紺のスカーフ。うっすらと赤いストライプが染めてある。とてもよい色あいだ。 「紺が好きなんだ」 「ええ」 「とくにこんな色」 「わかるわ。あなたの好きなものは」  と、圭子は言う。 「本当に?」 「はい」 「なんでも?」 「わかります」  黒い瞳が光って、まっすぐに飛んで来る。  ——好きな女もわかりますか——  と、古河も視線で尋ね返した。  ——ええ、わかります——  圭子も視線で答える……。  ——それはあなたですよ——  ——はい——  この瞬間、たしかにこんな会話が眼と眼で交わされた……。古河は、言葉より確かなものとしてそれを感じた。視線で交わす会話は、けっして明快な伝達ではないけれど、  ——これはまちがいない——  と、そう信じうるときが……言葉よりよほど確かに信じうるときがあるものだ。  この瞬間がそうだった。  古河は「あなたが好きだ」と言い、圭子は「わかります」と答えた。それは疑いない。  ふかひれのスープが運ばれて来て、短い緊張がほぐれた。 「用って、なんだろう」 「ええ」  その答が語られるまでには、思いのほか長い時間がかかった。  あいだにとりとめのない会話が挟まり、圭子が古河の問いに答えたのは、食事も終りに近づく頃だった。 「実は、結婚をしようと思って」  圭子は明るい声で告げて笑った。  ——私と?  と古河は尋ねかけ、  ——それはちがう——  と理解した。文脈がそうは続かない。 「ほう」 「急な話なんですけど……遠い親戚の人なんです」  眼を伏せて言う。  どうしてそういうことになったのか、圭子はポツリ、ポツリと、少ない言葉で要領よく語った。  ——なるほどね——  古河の心の中に納得が広まる。  紺のスカーフは、別れの記念品。おわびの印なのかもしれない。そして、さっきの視線は、  ——あなたの心はわかっています——  だったろう。  古河が圭子の視線をそう読み取ったところまではけっしてまちがいではなかった。  ——でも駄目なんです——  と、圭子は、今、眼と口で伝えている。 「おめでとう」  とりあえずそう呟いた。 「ありがとうございます」  大切な話は短かった。圭子はこのあとになにか予定があるような口ぶりである。結婚する相手と会う約束になっているのかもしれない。  デザートの苺を一つ残して外へ出た。 「君のこと、好きなんだけど、もう駄目かな」  一度だけは明快な言葉で尋ねておきたい。さもないと後悔する……。敗戦処理のようなものかもしれない。 「ごめんなさい」 「もう絶対に?」 「はい」  圭子は黒い瞳で答えた。 「うん。わかった」 「ごめんなさい」  もう一度、同じ言葉で言った。 「福岡へ行くんです」  男はそこに住んでいるのだろう。 「本当に。ごみごみしてるけど、夜はきれいな町だ」  圭子も水面に浮かぶネオンを見るにちがいない。 「さようなら」 「ご機嫌よう」  地下鉄の入口で別れた。  ——もう会えないな——  会うことはあるかもしれないが、そのときは今とはちがう二人になっているだろう。  古河は道を戻って夜の公園に入った。  この公園を通り抜けるあいだに気持の整理をすませたい。  ——少し損をしたかな——  けっしてせちがらいことを考えたわけではない。  ——これはこれでいい——  わるくない男女の関係だった。  ただ……なんと説明したらよいのだろうか。わけもなく緑川の話を思い出した。サンパウロにいる重信とかいう男のことも……。  ——男同士は長期市場だよ——  と緑川は頷いていた。  提供したサービスが十年後に、二十年後に返って来ることがある。明確にそれを期待しているわけではないけれど、心のどこかにそんな意識がある。そんな市場が形成されている。  ——男と女は短期市場だな——  短い期間のうちに回収しなければ、あとはもう遠い関係に変ってしまう。  それが困るというわけではない。男と女はそういうものなのだ。  公園を通り抜け、馴染みのバーに立ち寄った。いつもと変らない喧騒。 「なあ、ママ、いっぺんくらい俺とつきあってくれよ」  赤ら顔の男がママを口説いている。よく見る顔だ。彼はたっぷりとママに入れあげ、短いうちにサービスの代償を回収しようとしているのかもしれない。  古河はホット・ウイスキーを一ぱいだけ飲んでバーを出た。  また風が冷たくなった。  白い花びらが雪のように一つ、二つ、落ちて来る。  ——寒い——  古河はコートの襟を立て夜道を急いだ。  初出誌  響   灘 「週刊文春」一九八九年三月九日号〜三月三十日号  家族ゲーム 「マダム」一九八八年二月号〜十二月号  花 冷 え 「オール讀物」一九九一年四月号  単行本 一九八九年九月文藝春秋刊(「花冷え」をのぞく) 〈底 本〉文春文庫 平成四年七月十日刊